「火の雨」編集について振り返る中島さん=佐世保市松瀬町

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被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 佐世保空襲編・3 【体験者がぶつかる壁】 高齢化 語り部活動できず

2020/07/02 掲載

「火の雨」編集について振り返る中島さん=佐世保市松瀬町

「火の雨」編集について振り返る中島さん=佐世保市松瀬町

【体験者がぶつかる壁】 高齢化 語り部活動できず

 佐世保空襲を語る上で欠かせない本がある。24人の体験者の証言を記録した「火の雨」(絶版)。47年前の1973年に発刊され、初版の2千部はわずか数日で完売。すぐに増刷され、地元の平和教育にも活用された。
 70年代。戦争の記憶を風化させまいと、全国的に市民による空襲記録運動の機運が高まった。佐世保でも空襲から27年が経った72年6月28日夜、有志による空襲体験者の座談会が企画された。
 集まった体験者たちは涙を流したり言葉を詰まらせたりしながら、口々に胸に秘めていた思いを打ち明けた。企画者の一人、佐世保市瀬戸越町の西蓮寺東堂(元住職)、茨木兆輝(89)が回想する。「みんな苦しみを内に秘めていた。その思いを埋もれさせてはいけないと強く思った」。
 茨木や学校教諭ら6人が空襲の記録を編集する会をつくり、「火の雨」の出版に奔走した。74年には同会を母体に「佐世保空襲を語り継ぐ会」が発足。基地の街・佐世保における平和運動の先駆けとなった。
 それから約半世紀。空襲体験の継承をけん引してきた同会も、会員の高齢化の問題に直面している。10年前、約40人だった会員は現在25人。講演会などで体験を語ることができるのは1人だけ。「会員数を増やし、体験者でなくても継承できる場を実現したい」と同会代表の早稲田矩子(77)は危ぐする。
 「火の雨」の編集者6人も、一人また一人とこの世を去り、現在は茨木と元中学教諭の中島忠(90)の2人だけに。中島は定年退職後もあちこちの学校に出向き講話をしてきたが、近年は足が悪くなり、語り部活動はできていない。
 中島は「もう直接、体験を伝えることはできない。『火の雨』を読み継いでほしい」。茨木は「今、街に空襲被害の痕跡はない。空襲があった事実が忘れ去られてしまうのではないか。そんな怖さや焦燥感がある」と唇を噛む。
 東京大空襲・戦災資料センター主任研究員の山本唯人(47)によると、全国各地の空襲被害は、原爆被害などと違って公的援護の枠外に置かれ、継承活動も民間を中心に担われてきたのが実情だ。
 山本は警鐘を鳴らす。「体験者はいつかいなくなる。体験者が残した『物』をあらためて一つ一つ検証し、活用すべき時期に来ている。今を生きる人たちが、その価値に気づき、体験者たちの思いをつなげられるかが問われている」
(文中敬称略)