マレーシアのサイード国連大使と固い握手を交わす山脇さん(左)=長崎市、長崎原爆資料館

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8月9日のメッセンジャー 被爆者・山脇佳朗の歩み・1 「負い目」 父の遺体を置き去りに

2019/08/02 掲載

マレーシアのサイード国連大使と固い握手を交わす山脇さん(左)=長崎市、長崎原爆資料館

 
 8月9日の原爆の日の平和祈念式典で、山脇佳朗さんが被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げる。得意の英語を生かし、原爆の実相を世界に伝える「メッセンジャー」として活躍してきた山脇さんの足跡をたどる。
 
 7月11日、長崎市平野町の長崎原爆資料館の応接室。同市晴海台町の被爆者、山脇佳朗(85)は、マレーシア国連大使のサイードと向き合っていた。
 サイードは来年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議で核軍縮委員会の議長を務める要人だ。山脇は30分間、得意の英語で自らの被爆体験や核廃絶への思いを伝えた。
 山脇の話が終わると、サイードは「長崎が最後の被爆地になることを望む」と語り掛けてきた。「I hope so(私もです)」と山脇が応じ、2人はがっちり握手を交わした。

 山脇は原爆で命を奪われた父に「負い目」を感じて生きてきた。
 1945年8月9日。当時11歳の山脇は、双子の弟と共に稲佐町1丁目(当時)の自宅にいた。父は三菱電機長崎製作所鋳物工場の工場長を務めていた。家は130坪の広さがあり、縁側から長崎港が見渡せた。恵まれた家庭だった。母ときょうだい4人は佐賀県に疎開し、父、3歳上の兄、弟と4人で家を守っていた。
 昼が近づき、ふかした芋を食べようと茶の間に足を運んだ時だ。青白い閃光(せんこう)が一瞬、視界に広がり、ごう音が耳を切り裂いた。落ちてきた瓦が背中に当たり、飛び散ったガラスの破片が手足に突き刺さった。
 兄、弟や近所の隣組の人たちと自宅近くの防空壕(ごう)で一夜を過ごした。朝になっても父は帰らなかった。「浦上地区は全滅らしい」という周囲の制止を振り切り、父を迎えに、昼すぎに兄弟3人で岩川町(当時)の工場に向かった。
 「工場に行けば会える」という楽観は、焼け焦げて変わり果てた街並みや、無数の黒焦げの遺体を見るうちに消え、話す気力もなくなっていた。
 約1時間後、爆心地から約500メートルの工場に着いた。作業員らしき男性が「ぼっちゃんたちですね。お父さんは向こうで笑っておられますよ」と教えてくれた。ほっとして駆け寄ってみると、父は息をしていなかった。いつも無口で無表情だったのに、口元に笑みを浮かべたような顔で死んでいた。
 しばらくして、工場近くの川のほとりで父の遺体を焼いた。翌朝、骨を持ち帰ろうと再び工場を訪れると、燃やす木材が足りなかったのか、遺体はほとんど焼けずにいた。骸骨に灰をかぶせたような姿がおぞましく、父と信じたくなかった。
 「仕方ない。頭の骨だけでも持って帰るか」。兄が火箸で触れると頭蓋骨が割れ、生焼けの脳みそが流れ出た。あまりの恐怖に耐えかねて、遺体を置き去りにして3人とも工場を飛び出した。その後、父の遺体がどうなったかは分からない。山脇は言う。「今でも心残り。罪の意識さえある」(文中敬称略)