被爆71年 原爆をどう伝えたか 第6部 7

福島第1原発事故は被爆地にも衝撃を広げた(写真はイメージ)

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被爆71年 原爆をどう伝えたか 第6部 7 原発と核

日本で事故が起こるとは

2016/03/30 掲載

被爆71年 原爆をどう伝えたか 第6部 7

福島第1原発事故は被爆地にも衝撃を広げた(写真はイメージ)

原発と核

日本で事故が起こるとは

 2011年3月12日夜、長崎市内の長崎新聞社6階編集フロア。翌日朝刊の紙面構成を話し合う「立ち会い」と呼ばれる編集会議で、1面トップ記事の見出しをめぐり議論が続いた。前日に東日本大震災と東電福島第1原発事故が発生。原発は爆発事故が起き、震災被害も深刻さを増していく。議論の末、見出しは「死者・不明1800人超」に決まった。

 「日本で原発事故が起こるとは」。報道部長だった森永玲(51)=現論説委員長=は驚きを隠せなかった。

 国内の原子力関連施設で、初めて被ばくによる急性放射線障害により死者を出したのは1999年の茨城県東海村の臨界事故。当時、森永は記者として長崎の市民団体の動きなどを取材した。「あのころから被爆者や平和団体は原発に反対していた。それでも…。その後、問題意識は持っていなかった」

 原水爆禁止日本国民会議(原水禁)議長で県平和運動センター被爆連議長の川野浩一(76)も同じ思いを抱く。原水禁は東海村事故前から「核と人類は共存できない」と訴えてきた。川野は福島の事故が起き「自分たちは一体何をしてきたのか」とぼうぜんとなった。

 広島、長崎両都市を壊滅させ、多くの命を奪った原爆。一方、同じ原理ながら生活に必要なエネルギーを生み出す原発。原爆を投下した米国は戦後、「平和利用」の旗を掲げた。そして、日本を含め世界で原発が次々と建設された。原爆と原発は「別物」という意識が被爆地にもあったのでは-。その疑問に川野も森永も「脱原発は方針としてあった。ただ実際の行動が伴っていなかった」とする。だが核兵器廃絶で原水禁と共同歩調を取りつつ「平和利用の推進」を堅持する労組系の平和団体もあり、温度差があるのもまた現実だ。

 福島の原発事故発生から約1カ月後、長崎新聞は長崎大と県医師会の医療チームに同行取材するため福島県内にデスク2人を派遣した。多くの住民が放射線の影響にさらされ、将来にわたる注視が必要だった。被爆者医療など蓄積した研究成果を生かし現地の医療に貢献する長崎の医療従事者、研究者の活動を追うことは、長崎のメディアの役割と判断した。その後も毎年、記者派遣を続けている。

 森永は語る。「福島の事故は日本全体の問題。だが核被害で共通性がある長崎の地元紙記者だからこその着目点があると思う。そうあってほしい」(敬称略)