戦後70年ながさき<p>始まりと終わりの地 サセボ物語 6(完)

釜墓地には、古里に帰ることができなかった多くの遺骨が眠っている=佐世保市江上町

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戦後70年ながさき

始まりと終わりの地 サセボ物語 6(完) 釜墓地

古里帰れぬ遺骨 今も

2015/12/13 掲載

戦後70年ながさき<p>始まりと終わりの地 サセボ物語 6(完)

釜墓地には、古里に帰ることができなかった多くの遺骨が眠っている=佐世保市江上町

釜墓地

古里帰れぬ遺骨 今も

 太平洋戦争開戦の暗号を発信したとされる針尾無線塔や米軍住宅に囲まれた佐世保市の針尾島の一角に、旧日本兵たちの遺骨が無数に眠っている。 その場所を「釜墓地」という。

 1949(昭和24)年1月9日。小雪が舞う同市の浦頭港に復員船「ぼごだ丸」が入った。太平洋、南方各地に出征し、終戦後、フィリピン・マニラ郊外の日本人収容所に捕らわれ、戦死あるいは病死した軍人、軍属らの遺骨307柱、遺体4515柱を載せて。

 誰一人出迎える者もいない無言の帰国。このとき、終戦から既に3年半の月日が流れていた。

 遺体は1カ月かけて火葬され、他の身元不明遺体約2千柱とともにこの地に埋葬された。その数は6500余柱と言われるが、正確な数は分からない。

 戦後の混乱もあって、民間の佐世保釜墓地戦歿(ぼつ)者護持会が82年に慰霊祭を始めるまで、釜墓地の存在はほとんど世に知られていなかった。

 護持会は米軍が作成した名簿などを基に遺族を捜しているが、現在までに判明しているのは578人。同会長の宮内雪夫(82)は嘆く。「多くの遺骨が古里に帰れぬままここに眠っている。戦後処理はまだ終わっていない」

 運命の糸に引き寄せられるように、遺族が見つかることが今もある。

 今年10月、平戸市の女性(78)は護持会の名簿に父の名を見つけた。父はフィリピンで戦死し、遺骨も遺品も戻らなかった。知人から釜墓地のことを聞き、初めて足を運んだのだった。

 終戦直後、自宅で開けた白木の箱には10センチほどの木片が入っていた。「お父さんが木になって帰ってきた!」。驚く傍らで、母は初めて声を上げて泣いた。女手一つで子ども5人を育てた母は約20年前に89歳で他界。その後の人生で、父のことが口の端に上ることはなかった。

 70年という歳月は記憶も感情も薄れさせていく。父と「再会」を果たしても、涙はこぼれなかった。「ここにおったとね」。ただそれだけ言葉にできた。

 「長年供養してくれた護持会には感謝している。でもこんな話、記事になりませんよ」と女性は寂しそうに言った。あの戦争の後、彼女のような体験は世間にあふれていた。戦死者の数と同じだけ、幾万通りの遺族の悲しみがあった。

 戦後70年。それは一つの節目にしかすぎないことを、物言わぬ戦没者たちは伝えている。

=敬称略=

おわり