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被爆70年 年間企画 原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第5部「礎」 8(完)
「ノーモア」 世界に響く

2015/11/22 掲載


「ノーモア」 世界に響く

” 1982(昭和57)年6月、長崎新聞の記者、本田貞勝(70)=長崎市秋月町=は米ニューヨーク行きの機内にいた。同乗の長崎市長(当時)、本島等を見やると背中を丸め、ぶつぶつと英語をつぶやいている。本島は顔を上げて言った。「国連で話す練習さ」

第2回国連軍縮特別総会(SSDⅡ)が開幕。本田は本島に同行取材した。欧州を起点に世界の反核運動が盛り上がり、SSDⅡ)は前回以上の期待が寄せられた。本県からも被爆者ら約40人が現地入り。「地元紙が行かなくていいのか」。本田は報道部長に詰め寄り、海外出張の許可を得た。

現地では各国の市民が集まり、集会やデモを実施。日本からも前回の倍以上の計約1200人が参加した。だが本田は日本人の浮かれた雰囲気が引っ掛かった。集会では記念撮影に興じる姿も。隣で長崎の女性がぼやいた。「観光で来たわけじゃないのに」。旅の感慨と興奮はあるにしても確かに違和感があった。

本田はSSDⅡ会期中に帰国。運動への批判と期待を込めて、連載でこう書いた。「現地で“ナガサキの声”が結集すれば、その重さは増し、人々の心を打っただろう」。だが、その声が世界に響く日は意外に早く訪れた。

本田が帰国する頃、長崎の被爆者、山口仙二(2013年に82歳で死去)がニューヨークに着いた。現地で迎えた高橋眞司(73)=長崎大客員教授=は、その表情にかなりの疲れを読み取った。SSDⅡの「NGOの日」に山口は、日本の被爆者として初めて国連総会で演説する。大役の重圧と殺到するマスコミに憔悴(しょうすい)していた。
6月24日、国連本会議場で山口は、“被爆という地獄”をみた者の一人として、血の叫びを発した。「ノーモア・ヒロシマ、ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」

同25日の長崎新聞夕刊は外信記事で、演説が「ひときわ大きな拍手を浴びた」と伝えた。同時に、議場では空席が目立ったとも。だが高橋は「その歴史的意義は変わらない」と言い切る。「苦しみ抜いた被爆者が核戦争の危機に直面した世界に向けて叫んだ。被爆者運動の一つの頂点だった」

事実、山口の演説はその後、たびたびメディアで取り上げられ、「歴史的瞬間」となっていった。自らの尊厳と権利回復を求めて立ち上がった被爆者たちの声は、原爆投下から37年の歳月を経て、核兵器廃絶を目指す国際社会においても価値あるものへと到達した。(敬称略)

=第5部おわり=”