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戦後70年 ながさき 佐世保大空襲の記憶 3 芥川浩一郎さん(81) 当時光園国民学校6年、11歳
にぎわい 跡形もなく

2015/06/25 掲載

芥川浩一郎さん(81) 当時光園国民学校6年、11歳
にぎわい 跡形もなく

ゴウゴウ、ガタガタと外の音が防空壕(ごう)に不気味に響いていた。外からの熱気で壕内は蒸し暑さが増したが、恐怖で震えは止まらなかった。
菓子屋や紙店、化粧品店などずらりと並ぶ佐世保市中心部の商店街。ほとんどが木造だった。アーケード街となった現在よりも幅は3メートルほど狭かった。しかし路線バスが走り、陸海軍の兵隊が行き交うなど、連日にぎわっていた。
父は商店街の一角、本島町で時計店を経営。海軍御用達で時計は飛ぶように売れた。店の隣に自宅があり、光園国民学校へ歩いて通っていた。
1945年6月28日夜は雨。眠りに就いてすぐ、急に体を揺すられた。「早く起きて。逃げんばけん」。父か母かは覚えていないが叫び声は耳に残っている。
窓の外を見ると、家のすぐそばに焼夷(しょうい)弾が次々と降ってきた。怖さを感じる余裕もない。慌てて家の裏山にある町の防空壕に走った。「爆弾が当たりませんように」と、ひたすら願っていた。
壕に逃げ込むと、急に恐怖心が込み上げ、体が震えてきた。壕内はすし詰め。奥の方で息をひそめた。外は見えなかったが、すさまじい音だけが響いてきた。
静かになった午前5時ごろ、恐る恐る外に出た。自宅も店もなかった。商店街そのものが跡形もなく消えていた。昨日まで活気があった街は、不気味なほど静か。鉄筋コンクリート造りの佐世保玉屋が、辛うじて姿をとどめていた。
壕を出て線路を歩き、祇園町の別宅に向かった。辺りには、黒焦げになった死体が転がり、生気のない人が歩いていた。誰も何も話さなかった。子どもだったからだろうか、そんな光景を見ても「こんな目に遭わなくて良かった」と自分のことばかり考えていた。
別宅も燃えていたので、裏の壕で数日過ごした。その後、熊本県にいる父の親戚に引き取られ、佐世保に戻ったのは終戦後の12月。商店街は区画整理され、島瀬町に店を開いた。その後は、朝鮮戦争の特需で潤ったため復興は早かった。