戦後70年 ながさき 佐世保大空襲の記憶 1

「不老洞」の前に立ち、大空襲の様子を振り返る江島さん=佐世保市高梨町

ピースサイト関連企画

戦後70年 ながさき 佐世保大空襲の記憶 1 今でも近づけぬ「洞」 死体の山「これが戦争」

2015/06/23 掲載

戦後70年 ながさき 佐世保大空襲の記憶 1

「不老洞」の前に立ち、大空襲の様子を振り返る江島さん=佐世保市高梨町

今でも近づけぬ「洞」 死体の山「これが戦争」

トンネルが近づくと、男性は急に立ち止まった。手はかすかに震えていた。
6月20日午後、佐世保市中心部。須佐神社(高梨町)近くにある古びたトンネル「不老洞(ふろうどう)」の前に、元中学教諭の江島麗介(83)=同市春日町=は立った。長さわずか30メートル余。出口の先に民家が見える。
それでも「今も怖くて近づきたくない。多くの人がここで苦しんだのでしょうから」。江島は記憶をたぐり寄せ、ゆっくりと語り始めた。

70年前の6月29日朝。13歳の江島は「不老洞」の前で立ちすくんでいた。
28日午後11時58分から29日未明まで約2時間、米軍のB29が佐世保を襲った激しい爆撃。死者は少なくとも1229人、被災者6万人を数えた。
高梨町に7人で暮らしていた江島や家族は幸い無事。空襲被害を確認しようと市街地へ向かった。「不老洞」へ着いたが誰かに止められた。入り口には目隠しのすだれ。だが、垣間見えた光景に息をのんだ。壁際には、死体が折り重なっていた。どれも体が焼けた気配はない。煙に巻かれたのだろう。
「これが戦争か」。この日から「不老洞」に近づくことはできなくなった。

佐世保大空襲から28~29日で丸70年。被害を受けた市中心部の現場を訪ねながら、被災者の証言を聞いた。

1945年6月28日。
佐世保は土砂降りの雨に見舞われていた。「これだけ降っていれば、敵機もこないだろう」。当時13歳だった江島麗介(83)はそう高をくくっていた。有視界飛行が当たり前と考えられていた時代。江島は安心して床に就いた。
この夜、多くの市民は「油断」をしていた。というより「疲れていた」。「(前日の)27日に空襲がある」といううわさが流れていた。町は緊迫感に包まれ、市民は眠れぬまま朝を迎えた。だが、空襲はなかった。「何だ、デマじゃないか」。もともと半信半疑だったが、ほっと胸をなで下ろしたのを覚えている。
ところが、28日から日付が変わろうとするころ、辺りが突然、真昼のように明るくなった。「米軍の攻撃だ」。江島は跳び起きると、自宅裏の防空壕(ごう)へ弟妹たちを避難させ、自身は家を守るため高梨町の自宅で1人、待機した。
同町から少し離れた市街地ではすでに、次々と火の手が上がっていた。
本島町の時計店の息子、芥川浩一郎=当時(11)=は「爆弾が当たりませんように」と祈りながら、必死で防空壕へ駆け込んだ。相生町の主婦、山本タエ=当時(25)=は、自宅前の溝で生後8カ月の長男を抱えて震え、戸尾町の高台に逃げた藤澤静江=当時(15)=は、探照灯に照らされたB29の姿におびえた。
爆撃後、小学校教諭だった篠崎年子=当時(27)=は、燃え上がる勤務先の校舎(保立町)を見て、悲嘆に暮れた。佐世保郵便局電話課に勤めていた岡村スマ=当時(18)=は、相生町の局舎前に並ぶ同僚の遺体に胸が締め付けられた。佐世保の街は一夜にして焼け野原となり、多くの人の命と暮らしが奪われた。

それから70年後の今年6月20日。多くの犠牲者が倒れていたトンネル「不老洞」を後にした江島は、高梨公園(高梨町)へ向かった。「ここには火葬場があり、戸板に乗せられた遺体が次々に運ばれてきた」。だが、ここに物語るものは何も見当たらなかった。
公園の上の市道に出た。行き交う車を背に、江島は「ここは広場だった。山のように遺体が積み上がっていた」と振り返った。
大空襲の数日後、江島はここで、見知らぬ男たちから言われ、遺体を1カ所に集める作業を手伝った。遺体の山の上に、まきを置いて油を掛けて点火。長い間煙が立ち上っていたという。
大学卒業後、江島は中学校教諭に。退職後、取材を受けたことがきっかけとなり、体験を話すようになった。現在、NPO法人佐世保空襲を語り継ぐ会の理事を務めている。
戦後70年の今年。29日には市内の小学校で講話をする。「大空襲を通して、戦争の悲惨さを、今ある平和の尊さを知ってもらいたい。生き残った私たちには、あの経験を語り継ぐ使命がある。今はそう思うのです」=文中敬称略=
(宮本宗幸、永江倫子)

◎市内全戸数の35%全焼

佐世保空襲犠牲者遺族会や佐世保市が発行した資料によると、佐世保大空襲は、米爆撃機B29141機が襲来し、焼夷(しょうい)弾約千トン余を投下。市内の全戸数の35%に当たる約1万2千戸が全焼した。
本県の大規模な空襲としては1944年10月、東洋一の規模とされた飛行機生産工場、第21海軍航空廠(しょう)で約300人の犠牲が出た「大村大空襲」がある。一方、海軍鎮守府が置かれた佐世保では44年まで大きな空襲はなかったとされる。だが、45年4月8日、米軍機グラマンが来襲。海軍工廠などが被弾し、約100人が死傷したが、新聞発表などが禁じられたため、被害の詳細は明らかになっていない。