原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第3部 混沌 5

長崎市上野町の市永井隆記念館に展示されている永井博士(中央)と長男誠一さん(左)、次女茅乃さんの写真パネル

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原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第3部 混沌 5 永井論争
平和訴え続けた博士の功績
思想と影響力に批判的論評

2014/12/21 掲載

原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第3部 混沌 5

長崎市上野町の市永井隆記念館に展示されている永井博士(中央)と長男誠一さん(左)、次女茅乃さんの写真パネル

永井論争
平和訴え続けた博士の功績
思想と影響力に批判的論評

1945年9月、連合国軍総司令部(GHQ)がプレスコード(新聞遵則)を発令し、占領期の「長崎新聞」(1946年に「長崎日日」「長崎民友」「佐世保時事」「新島原」に分裂)は言論統制下に入った。貧困や原爆症に苦しむ被爆者の実態報道が制約される中、例外的に紙面にたびたび取り上げられたのが永井隆(08~51年)だった。白血病と闘いながら平和希求の精神を訴えた晩年の功績がたたえられる一方、その思想と影響力は後年、一部で批判的に語られた。90年代には、永井の原爆論を「浦上燔祭(はんさい)説」と名付けた長崎大客員教授の高橋眞司(72)の批判的論評と、学校法人純心女子学園の片岡千鶴子(77)の反論が「永井論争」として話題になった。

年間企画「原爆をどう伝えたか」第3部の後半は、永井にスポットを当てる。希代の人物を被爆地の新聞はどう報じ、どんな影響をもたらしたか。「論争」から約20年が過ぎた現在の高橋、片岡の見解を交えながら、あらためて考える。(報道部・六倉大輔)

◎長崎大客員教授 高橋眞司氏(72)
思想と影響力に批判的論評 脚光の陰で苦しむ者も

一石を投じた高橋の論文「長崎原爆の思想化をめぐって-永井隆と浦上燔祭説」は、94年出版の著書「長崎にあって哲学する-核時代の死と生」に収録された。

原爆投下をめぐる永井の思想への批判は以前からあった。永井と師弟関係だった被爆医師の秋月辰一郎は66年発行の著書で、永井について「『神は、天主は浦上の人を愛しているがゆえに浦上に原爆を落下した。浦上の人びとは天主から最も愛されているから、何度でも苦しまねばならぬ』といった考え方にはついていけない」と表明。本県の詩人、山田かんは72年に「聖者・招かれざる代弁者」を雑誌で発表し、本格的批判論の嚆矢(こうし)となった。高橋は「先行者たちの考えを総合し、冷静な議論の場を開いた」と自身の役割を説明する。

高橋は、永井が45年11月23日の合同ミサで信者代表として読み上げた弔辞(「長崎の鐘」収録)に着目し、永井の原爆観に、摂理、燔祭、試練の三つの要素を指摘した。永井は、原爆投下を人知を超えた「神の摂理」、犠牲者を「燔祭の小羊」と表現。燔祭とは、神への捧(ささ)げ物を焼き尽くす宗教儀式のこと。さらに、生き残った者たちの苦しみは「神が恵んだ試練」と説いた。これが「浦上燔祭説」の基本的な要件となる。

永井の宗教的解釈は、米国の原爆投下や日本の戦争責任などを許す「二重の免責」の役割を果たすことになった。さらに、49年5月の昭和天皇の見舞い、同年12月の「長崎市名誉市民」の授与、50年6月の国会表彰など永井に対する一連の「政治的引き立て」は、原爆に怒り、責任追及し、権利回復を求める被爆者の声を封じる結果となった。「脚光を浴びた永井の陰で、苦しみの中に放置された被爆者もいた」

◎学校法人純心女子学園理事長 片岡千鶴子氏(77)
思想と影響力に批判的論評 「天罰」否定し復興促す

片岡は96年に発行した「被爆地長崎の再建」で「原爆は神の摂理」という永井の表現に着目した一連の批判に反論した。「弔辞は、永井が信徒として、信徒に向けて読んだもの。その前提を欠いて解釈すると真意を読み違える」と主張する。

片岡によると、永井の著作の中で、燔祭説の基礎となる「神の摂理」という言葉が登場するのは弔辞を除けば「長崎の鐘」の「第十一章 壕舎の客」のみ。本来、「長崎の鐘」は、「科学者・永井」による原爆被害の実態記録としての性格が強い。「弔辞」や「第十一章」は「宗教者・永井」の発言であり、「明らかに不要な付けたし」と言う。「『長崎の鐘』に載り、広く読まれたがために、『摂理』という言葉だけが取り上げられ、拡大解釈されてしまった」とする。

ではなぜ、問題の文章を載せたのか。片岡は、「原爆は天罰」とする考えを否定したかったのだと推察する。戦後の長崎では、浦上地区のカトリック信者への差別意識が根強く残っていた。「原爆は浦上に落ちた。カトリック信者への天罰だ」。そんな心ない俗説が流れ、信者たちの心をむしばんでいた。「苦しみを天罰と考えるのは、カトリックの教えに反し、死者を冒瀆(ぼうとく)することになる。もし、浦上の信者たちがそんな考えを持ってしまっていたら大変なことだ。『苦しみを受け止め、復興の歩みを進めよう。その生き方を私たちは知っているではないか』。永井は同じ信者としてそう訴えたかったのではないか」とみる。

戦後から死去までの6年間、永井は「浦上の復興だけのために仕事をしたと言っても過言ではない」と片岡は言う。「原爆で亡くなった多くの人々の思いを引き継ぎながら、傷つき生き残った人々は復興に力を尽くした。永井は、死者と生者を結ぶ大きな役割を果たした」

◎米国の思惑/「燔祭説」核正当化に利用

永井の弔辞に、原爆と差別にうちひしがれた浦上の信者を励ます意図があったことは、高橋も賛同する。その上で「問題は燔祭説が、米国の原爆投下と核武装戦略の正当化に利用されたことだ」と提起する。本来、特別な「仲間たち」のためだけに向けられたはずのメッセージが、社会的な「役割」を果たすことになった背景は、何なのか。
GHQの原爆に関する情報統制の実態を調査したモニカ・ブラウの「検閲 原爆報道はどう禁じられたのか」には「長崎の鐘」の出版のいきさつとその裏にある米側の思惑が記されている。

「長崎の鐘」の原稿は、情報部門のトップを含む複数の部局に回され、1年以上、出版が議論された。「悲惨な光景、死者数の多さ、痛ましい負傷などの描写が米国への怨念を引き起こす」と発行禁止を勧める意見と、「米国の影響力がある今のうちに出版するのが賢明」との意見があった。後者の意見では、同書で「原爆がまるで天災のように扱われている」点に着目している。その主要な論拠こそ問題の「弔辞」であった。

「東西冷戦を勝ち抜くため、原爆投下と核武装を正当化する必要があった米国にとって、長崎の被爆者・永井から発信された論理は格好の素材だった」と高橋は分析する。
GHQは、旧日本軍のフィリピン・マニラ島での虐殺を記録した「マニラの悲劇」の併録を条件に「長崎の鐘」の出版を許可した。「米国の軍事行為が描写されるのであれば、それを挑発した、あるいはその動機づけとなった日本の軍事行為も示されなくてはならない」というのが情報部門のトップ、ウィロビー将軍の言い分である。「『長崎の鐘』はよく書けた作品であり売れるだろう」「悪影響があった場合、今であれば後よりも、それを中和できる」。抱き合わせ出版許可には、そんな意図があった。

GHQの予想どおり、大衆は永井の作品を歓迎した。片岡は、永井作品には「長崎の鐘」を筆頭に被爆の実相を記した「原子もの」と、原子野の素朴な生活をつづった「永井もの」があり、広く人々の共感を得たのは後者だったと考える。「戦後復興に向けて立ち上がろうとする市民にとって、爆心地からのメッセージが心のよりどころになり、勇気をもたらした」

高橋も、永井作品には敗戦で傷つき、原爆などへの怒りを表現し得ない鬱屈(うっくつ)した人々への「浄化作用」があったとみる。「怒りを抑圧された人々は、永井と子どもたちとの強い絆や受難の物語に涙することで、鬱積を解消できたのではないか」

◎論争の後で/今に通じる地域貢献 歴史の中で捉え直す

広島と長崎の被爆者の対照的な態度を表して、いつしか使われるようになった「怒りの広島、祈りの長崎」のフレーズ。戦後長らく、永井は「祈りの長崎」の象徴的な人物として語られてきた。高橋も片岡も、永井のイメージの形成と浸透に、マスメディアが果たした役割を認める。2人の「論争」は、固定化した永井の姿をあらためて掘り起こし、問い直す契機になった。被爆70年を前に「論争」の主役である高橋、片岡は、永井をどう見るのか。

片岡は「広島に対し、長崎は眠っている、浦上の信者は立ち上がらないと言われ、永井の影響を理由に挙げる声もあった。反核運動をする人々にとって浦上のカトリックが動かないことは確かに不満だっただろう」と語る。しかし、「まずは自分が暮らすまちで、自分にできることを」と浦上の復興に尽くしたところに永井の真の美点があるという。「それぞれの立場で身の丈にあった生き方がある中、永井もできることを最後までやり通した。現代でも学べる地域貢献のあり方だ」と力を込める。

高橋もまた「燔祭説を超えてもなお、現代の若者を引きつける永井の人間的魅力」を認める。その上で、「被爆70年の歴史の中で、捉え直すことが重要」と提起する。核兵器の非人道性が議論され、廃絶への機運が高まる一方、国内では2011年、東京電力福島第1原発事故があった。「『今後も核と共存していくのか』という決断を迫られる時代に、永井はどんな問いを投げかけているのか。立場を異にする秋月辰一郎、山口仙二らにまで視野を広げ、見極めてほしい」

=文中敬称略=