原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第3部 混沌 2

長崎日日新聞記者時代の写真を見詰め、記憶をたどる花山さん=長崎市桜馬場2丁目

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原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第3部 混沌 2 落差
見ないようにしたのか

2014/12/19 掲載

原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第3部 混沌 2

長崎日日新聞記者時代の写真を見詰め、記憶をたどる花山さん=長崎市桜馬場2丁目

落差
見ないようにしたのか

1945年8月20日、当時21歳の花山一太(91)=長崎市桜馬場2丁目=は、北九州の戸畑から長崎に向かう汽車に揺られていた。43年から学徒動員で戸畑の電波探知機隊に所属し、ようやく戦争は終わった。本当は映画の仕事に就きたかった。列車内は復員兵らで満員。長崎駅で降り、見渡すと一面、焼け野原だった。無性にむなしくなった。

8月9日から10日まで続いた火災で長崎市街の約3分の1が焦土と化した。このうち官公庁が集まる「南部地帯」(爆心地から2・7~3・4キロ)は県庁から燃え広がり、24カ町を全半焼などした。

花山は、南部地帯の焼け残った自宅で母と生活を始めた。ある日、電信柱の貼り紙に気付いた。「”九州民論”社員募集」。市内でタブロイド判夕刊を発行する小さな新聞社。社長は、長崎新聞などで記者経験がある中山民也だった。花山は民論で記者の腕を磨き、長崎新聞から分離した長崎民友新聞に46~47年ごろ転職。取材、整理記者になった。社長は後の知事、西岡竹次郎だった。

引き揚げ、復員、食糧難に加え、農地改革、東京裁判、公職追放、憲法公布、朝鮮戦争、警察予備隊発足、そしてサンフランシスコ講和条約発効-。占領期、日本は激動と混乱のただ中にあり、混沌(こんとん)としていた。「民友の紙面は政治の記事ばかり。先輩に文化系などの記事を書きたいと伝えても即座に無理だと言われた」と花山は振り返る。

長崎日日新聞に移っても大差はなかった。連合国軍総司令部(GHQ)の方針や国政で紙面は埋まり、地元記事は復興事業が中心だった。浦上で被爆者が「放射能」で体をむしばまれ、苦しんでいたころ、紙面では逆に「被爆者はホトンど回復 米原爆調査團ワーレン大佐談」(47年5月)など、被害の矮小(わいしょう)化と受け取れる記事も散見される。この”落差”は、プレスコードの影響だったのだろうか。

しかし、占領期の長崎民友、その後長崎日日に勤務した元記者、北村博雄(88)=諫早市原口町=は、GHQの報道統制を当時感じたことはないという。「全体が混乱していた。殺人、窃盗も多く、記者はそうした取材に奔走していた」と話す。

花山もまた、戦後の被爆者の悲惨な状態を見た記憶がない。見ないようにしていたのかもしれないとも思う。 (文中敬称略)