被爆70年へ 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第1部「父のアルバム」 4(完)

島兵司さんが撮影した復興が進む1954年当時の長崎市内の写真

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被爆70年へ 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第1部「父のアルバム」 4(完) 被爆、進学そして復興
「どんな世の中に」胸に希望

2013/07/20 掲載

被爆70年へ 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第1部「父のアルバム」 4(完)

島兵司さんが撮影した復興が進む1954年当時の長崎市内の写真

被爆、進学そして復興
「どんな世の中に」胸に希望

島兵司さん(79)=長崎市金屋町=が新興善国民学校5年生のころ、空襲警報の発令回数は増えていった。敵機の襲撃後、ラジオは決まって「わが方の損害軽微なり」と伝えた。1945年に長崎に原爆が落とされる前年のことだ。

日本が負けるはずはない-。その思いとは裏腹に食料は乏しくなっていった。米はなかなか手に入らない。イモとイワシで飢えをしのいだ。「『お国のため』という気持ちで、なんとか命をつないでいる感じだった」

祖父母宅があった疎開先の滑石町(現滑石1丁目)で被爆。友人と川で遊んでいた。突然「ピカッ」と光り、熱線と爆風が襲った。とっさに目と耳を両手で押さえて地面に伏せた。近くに爆弾が落ちたと思うほどの衝撃。幸いけがはなく、家族も全員無事だった。

自宅があった今町(現金屋町)に父哲夫さんと向かったのは約1カ月後。爆心地に近づくにつれ、一面焼け野原の風景に目を疑った。浦上付近の川には、あおむけになったままの馬や牛の死骸が転がっていた。

自宅周辺も同じ状況。辛うじて場所が分かった。覚悟はしていたが、あぜんとした。涙は出なかった。

学校は9月の終わりごろ再開。臨時救護所になった校舎で授業を受けた。治療する場所は立ち入り禁止だったが、うめき声は聞こえてきた。運動場では火葬もしていた。授業は教科書の軍国主義などに関わる記述を墨で塗りつぶすことから始まった。冬になるころには近くの晧台寺(寺町)が仮校舎になった。

兵司さんは旧制海星中に進学。滑石町から汽車と徒歩で通った。2年生になるころ、長崎駅周辺と西浜町の電停辺りに闇市が並び、食べ物や雑貨などが売られた。「あれが復興の第一歩やろね」。長い戦争を経て、にぎわいを取り戻していく様子にほっとした。

建物が建ち始めてからは早かった。54年、兵司さんは街にカメラを向けた。テレビ放送が開始され、プロレスラーの力道山が活躍していたころ。中央に中町教会、その奥に県庁、左端の屋根瓦は福済寺。「どんな世の中になるのか希望でいっぱいだった」。この年、中学校の教師になった。

間もなく被爆68年。亡き父が撮影した戦前の多くの写真を手に取り、兵司さんはこう語る。「生活を良くしようと一生懸命働いてくれた父の世代のおかげで今がある。感謝しきれない」