8月15日 何をしていましたか 下

「若い人は戦後のどん底から頑張ってきた国民に感謝し努力してほしい」と語る川添さん=長崎市大橋町、ラッキー自動車

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8月15日 何をしていましたか 下 ラッキー自動車会長 川添一巳さん
佐世保で見た婦人の涙

2012/08/15 掲載

8月15日 何をしていましたか 下

「若い人は戦後のどん底から頑張ってきた国民に感謝し努力してほしい」と語る川添さん=長崎市大橋町、ラッキー自動車

ラッキー自動車会長 川添一巳さん
佐世保で見た婦人の涙

お国のために命をささげるつもりだった。天皇陛下は神様。日本は神の国だから負けない。軍国教育は徹底していた。敗戦を誰から聞いたかは定かではないが、ショックだった。「鬼畜」の米兵が恐ろしかった。

佐世保市俵町。突き抜けるような青空。「これから日本はどうなるんですか」。どこかの婦人が泣きながら兵隊に尋ねているのを見た。

当時13歳。6人きょうだいの長男で旧制佐世保中1年。夏休みだった。父親は国策会社だった佐世保貨物自動車の代表。軍需物資の輸送を一手に任され、徴兵を免れていた。親を軍人に取られ戦死した人からすれば恵まれていた。

父たちは「負けた」と騒いでいた。トラック300~400台と多数の従業員を抱えながら仕事がゼロになるかもしれなかった。やけ酒をあおるためなのか、酒の買い出しを命じられた。店に向かう途中で、泣き崩れる婦人に遭遇した。

振り返ると敗戦の予感はあった。終戦の数日前、平戸の友人宅へ遊びに行った帰り。平戸口の駅でやけどを負い、ぼろぼろの着物姿の女性数人と出会った。「3日前、長崎に新型爆弾が落ち、大きな被害を受けた」と聞いた。しばらくすると空襲警報が鳴り、森に身を潜めた。米軍の大きな戦闘機が運搬船を攻撃するのを目の当たりにした。圧倒的な力の差を感じた。

終戦を境に世の中は一変。進駐軍は優しく、「鬼畜」ではなかった。学校では教科書の一部を墨で塗られ、軍事教練はなくなった。何が正しいことなのか分からなくなった。戦災で焼けた佐世保の街をブルドーザーで一気に整理し、道路を広げていく米軍。手作業で防空壕(ごう)や道路を造っていた日本との違いに、負けて当然だと思った。

戦後は父のタクシー会社を継ぎ、1970年代以降、ハワイや米国本土で旅行事業、89年からハワイでホテル事業も展開した。失敗もあれば成功もあった。海外に出てから分かったのは日本の教育や経済水準の高さ。社会的な格差も少なく、これほど穏健で自然に恵まれた国はないと誇りに思った。

戦後の日本は、国民が焼け野原からめちゃくちゃに頑張ってきてつくった。戦争を知らない世代はこの社会が当たり前と思わず、感謝し努力してもらいたい。戦後の混乱を生き抜いてきた一人として若者に伝えたい。

【略歴】かわぞえ・かずみ 1932年、佐世保市生まれ。旧制佐世保中、佐世保北高、早稲田大法学部卒。タクシーの県内最大手、ラッキー自動車(長崎市)の社長を6月に退き、次男に事業を継承した。