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ナガサキの被爆者たち 山口仙二の生き方 3 家族
食卓囲む平凡な日常 原水禁分裂にジレンマも

2012/08/06 掲載

家族
食卓囲む平凡な日常 原水禁分裂にジレンマも

山口仙二(81)と妻幸子(77)は1957年1月、知人の葬式の手伝いで出会う。「どこかの子どもに毛布を掛けているところを見て、優しい人だなと思いました」。幸子がなれ初めを語る。

幸子は旧満州生まれ。島原半島で10代を過ごした後、美容師をしていた。

「周りから『仙ちゃん、いい人よ』と言われ、父も認める人なら良かろうと思って」。知り合って2カ月足らずで結婚。当時の新聞でも報じられ、同じ日にあった人気俳優の結婚より大きな扱いだった。

実家の4畳半で始まった新婚生活。仙二は長崎原爆病院(58年開院)の建設現場で働き、その後、天ぷら屋を開くがうまくいかず幸子の収入が頼りだった。「10円のパンも買えないような生活。必死に働きました」

幸子は61年9月、念願の美容室を開業。仙二は店を手伝うため、美容師の専門学校に通う。卒業時には「校長賞」を贈られるほど優秀な生徒だった。

「仙ちゃん、やってくれんね」。店が忙しくなる一方、被爆者運動に奔走する長崎原爆被災者協議会事務局長の葉山利行(後に会長、2005年に75歳で死去)らが、仙二を連れ出していく。「(夫の)代わりを連れてきて」。幸子が葉山と口げんかすることもしばしばあった。

「夫は運動に打ち込んでほとんど家にいない。私が家を何とかせんといかんというのがありました」

仙二が初の海外遊説に旅立ったのは美容院開業の年。日本原水協の国際遊説団の被爆者代表として、約1カ月半で西ドイツなど9カ国を歴訪。強行軍で被爆体験を証言したが高熱に倒れ帰国、入院生活を送った。

仙二は68年に2級建築士の免許を取得。自宅に設計事務所を構えた。子宝に恵まれなかった2人は同年、小学生の朱美と保育園児の美和の姉妹を養女に迎える。

高度経済成長の真っただ中。71年に設立した建設会社の経営は順調で生活も落ち着き、家族4人で食卓を囲む平凡な日常が訪れた。

「母がおしゃべりをして隣で父がにこにこ笑っている。父は家の中で運動のことは話しませんでした」

朱美(52)が10代の頃の記憶。茶の間で深刻な顔をしている父に、母が「(運動を)やめんね」と言ったことがある。「やめるわけにはいかん」。父はそう答えた。

保守、革新を超えた国民的運動となった原水爆禁止運動は、60年代に日米安保や米ソの核実験をめぐるイデオロギーの違いなどから分裂し、被爆者運動は停滞していた。

朱美は当時の父仙二の心境を察する。「政治的な問題が絡むことにジレンマがあったのではないでしょうか。純粋に核兵器廃絶を訴えたかったんだと思います」=文中敬称略=