この場所で 刻まれた原爆の記憶 4

長崎市立桜町小で、当時の勝山国民学校の情景を思い出す中村さん=長崎市勝山町

ピースサイト関連企画

この場所で 刻まれた原爆の記憶 4 治療を受けた勝山国民学校 中村良治さん(79)=長崎市立岩町=
教室に何体もの死体 生きているだけで感無量

2012/07/27 掲載

この場所で 刻まれた原爆の記憶 4

長崎市立桜町小で、当時の勝山国民学校の情景を思い出す中村さん=長崎市勝山町

治療を受けた勝山国民学校 中村良治さん(79)=長崎市立岩町=
教室に何体もの死体 生きているだけで感無量

強烈な光が走り、浦上町の自宅に駆け込んだ。爆風とほぼ同時に、がれきの下敷きになった。12歳だった。気が付くと左腕と左足をひどく負傷していた。夜、母や妹と銭座町の救護所へ。手当ての後、銭座国民学校近くの防空壕(ごう)で過ごし翌日、一緒にトラックで勝山国民学校に運ばれた。

爆心地から2・8キロ。鉄筋コンクリート3階建ての同校。すぐ前の文房具店は跡形もなく消え、周りの建物も全壊。同校だけがぽつりとあり、簡単な救護活動などが行われていた。左足は、骨が見えるほどのけがだったが、消毒しかしてもらえなかった。

校内の廊下は窓ガラスの破片が突き刺さり、教室の隅に焼け焦げて膨れ上がった死体が何体も並んでいた。母は死体を一つ一つ見て、行方不明の兄を捜した。でも男女の区別さえつかず結局、兄は見つからなかった。

死体の傍らに治療を求めるけが人たち。うめき声が響いていた。教室の窓はほとんどが破損。5日間をコンクリートの床に寝て過ごしたが、同室に死体が横たわっているという現実離れした状況なのに、悲しみや違和感は全く感じなかった。支給されたおにぎりは、生きるために無理やり自分の口に押し込んだ。電球がない天井。夜は真っ暗になった。「生きているだけで感無量。それだけだった」

同校舎は2003年、桜町小の新校舎として建て替えられている。時折、学校の近くを通ると、子どもたちのにぎやかな声が聞こえてくる。そんなとき、平和のありがたさをしみじみと感じる。