なにもかもなくした
 松尾あつゆきの日記より 2

松尾あつゆきの遺族が保管している日記類=西彼長与町岡郷

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なにもかもなくした 松尾あつゆきの日記より 2 困難に立ち向かう
娘と2人慰め合い

2010/08/06 掲載

なにもかもなくした
 松尾あつゆきの日記より 2

松尾あつゆきの遺族が保管している日記類=西彼長与町岡郷

困難に立ち向かう
娘と2人慰め合い

松尾あつゆきの日記類は昨年死去した後妻とみ子が大切に保管していた。

日記類は、1924年から死の約2カ月前の83年8月まで計31冊ある。このうち4冊が被爆直後の45年9月ごろから翌春にかけてつづられたものだ。

4冊は表紙にそれぞれ「3」「3b」「4」「5」と番号を振っている。

「3」は8月9日から15日の覚書。内容は句集「原爆句抄」収録の手記「爆死証明書」として既に公表されている。「3b」は、未完成の80句ほどを書き留めた推敲(すいこう)の跡が残る句作ノートだ。

日常と心境をつづった純粋な日記は「4」と「5」。日付は「4」が45年9月21日から11月30日、「5」は同年12月1日から翌年5月31日まで。

あつゆきの長野時代の教え子で、あつゆきの全句集「花びらのような命」を編集した俳人竹村あつお(76)=長野県長野市=は、生前のとみ子に「日記を見たい」と頼んだが断られたという。

あつゆきの孫平田周(52)は「日記にはプライベートなことも書いている。家族以外には見せられない、と祖母は思っていたようだ」と話す。

被爆65年目に解かれた「封印」。平田から手渡されたコピーをめくると、寡黙なあつゆきの、生の感情と言葉が刻み込まれていた。

「この日記は、一時の愁嘆にいつまでもふけっていても仕様がないから、次々に、気持ちを発展させて行く手段として記すものである」(45年10月13日)

あつゆきは過酷な運命から立ち上がらなければならなかった。16歳の長女みち子が生き残っていたからだ。

県立長崎高等女学校3年生のみち子も、学徒動員先の三菱重工長崎兵器製作所茂里町工場で被爆し、両腕と顔に重いやけどを負っていた。あつゆきは仕事を休み、生死の境をさまよう娘を看護した。すると「職場放棄」を理由に食糧営団を解雇されてしまった。

あつゆきは、心無い首切りに悲憤の涙をこぼしながら日記を付け始めた。その理由を「原爆句抄」の後書きで次のように書いている。

「日記をつけることは、みじめな気持ちを救ってくれた。被爆以来のきびしい現実に直面し、内省することによって、再び生きる力を取り戻したのである。また、この日記は、後に俳句や手記を書くときの、いわば原点となった。今でも読み返すと、その生々しさに、我ながら驚くのである」

みち子がどうにか体を動かせるようになった11月末。あつゆきは長崎を去り、生家がある北松佐々町の山村に親子で身を寄せた。

「あんたんたる気持ちであるが、(みち子と)互いに元気をつけ合い、慰め合う。困難に進んで立ち向かうようにしたい」(12月1日)

(敬称略)