浦上に生きて
 胸に刻む歴史 3

あの夏の日

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浦上に生きて 胸に刻む歴史 3 神の摂理
原爆「宿命」と「恨み」

2010/08/02 掲載

浦上に生きて
 胸に刻む歴史 3

あの夏の日

神の摂理
原爆「宿命」と「恨み」

「旅」から戻った浦上の信徒は1880(明治13)年、庄屋屋敷を買い取り、仮聖堂にした。95年に教会建設に乗り出し、1914(大正3)年、旧浦上天主堂が完成。25年に双塔もできたが、20年後に原爆で倒壊する。

浦上の信徒で被爆者の救護に当たった医師の故永井隆氏は著書「長崎の鐘」の中で、原爆が浦上に落とされたことを「神の摂理」と書いた。この考え方を信徒はどう受け止めたのか。

浦上の歴史を見続けてきた深堀達雄さん(95)=長崎市上野町=は「神の摂理と思う。神様しか知らない何かの理由がある」と言い切る。

出征していた深堀さんはフィリピンのルソン島で終戦を迎えた。捕虜としてマニラの燃料集積所で1年間ほど労働に従事し、終戦翌年の12月に帰国した。再会した父から聞かされたのは、原爆の後、妻とみられる遺骨が上野町の自宅跡で見つかったことと母も全身やけどを負い、死亡したことだった。

自らは戦争捕虜となり、妻と母を原爆で奪われながらも「(原爆を投下した)アメリカや神様を恨んだことはない」と深堀さん。「人間は生まれたときから神様に与えられた宿命を持っている。恨んでも仕方ない」と穏やかな表情で話す。

ただ「恨みたくなった人もいたと思う。カトリック信徒をやめてしまいたいと話す人もいた」とも。すべての信徒が「神の摂理」に納得したわけではなかった。

原爆で大きなやけどを負った片岡ツヨさん(89)=長崎市石神町=は疑問を感じた。「人類を救ってくださるのが神。こんなひどいことをなさるはずがない」と考えたからだ。

24歳のとき、爆心地から1・4キロの三菱兵器製作所大橋工場で被爆。顔にやけどを負い、人前に出ることが嫌になった。大勢の信徒が集まる浦上天主堂には行けず、修道会の小さな聖堂で長年ミサに参加した。結婚もあきらめた。亡くなった親せきは13人もいる。

「最初はアメリカが憎かった。憎みましたよ。でも人を愛するのがキリスト教の教え。自殺しなかったのも教えがあったから」

原爆を「神の摂理」と考えなかった片岡さんの信仰が揺らぐことはなく、過酷な人生を乗り越える支えになった。

原爆に対するさまざまな思いを抱えながら、浦上の信徒らは教会の再建に乗り出した