被爆者を乗せて
 救援列車の記憶
 =続編= 1

原爆が投下された当時の長崎市の写真を示しながら振り返る榊安彦さん=長崎市の自宅

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被爆者を乗せて 救援列車の記憶 =続編= 1 榊安彦さん(長崎市)
やけどの姉 息引き取る
治療向かうも早岐で火葬に

2009/09/25 掲載

被爆者を乗せて
 救援列車の記憶
 =続編= 1

原爆が投下された当時の長崎市の写真を示しながら振り返る榊安彦さん=長崎市の自宅

榊安彦さん(長崎市)
やけどの姉 息引き取る
治療向かうも早岐で火葬に

長崎市に原爆が投下された1945年8月9日から運行された救援列車にまつわる出来事を各地で取材した「被爆者を乗せて 救援列車の記憶」(8月11~16日付、全6回)を掲載後、反響が寄せられた。それを基に、新たな記憶の糸をたぐる。

「姉が火葬された寺がどこか分からないだろうか」

長崎市泉1丁目の榊安彦(72)は連載を読み、長崎新聞社に問い合わせた。8歳で家族とともに被爆。救援列車の忘れられない記憶が自分にもあると語った。

安彦によると、純心高等女学校の生徒だった4番目の姉フミ子=当時(15)=は、家野町の自宅近くの路上で被爆。爆心地側に面していた半身に大やけどを負った。町の共同防空壕(ごう)のそばで捜していた2番目の姉が見つけ、榊家が用意していた防空壕まで連れてきた。

安彦は8人きょうだいの末っ子。自宅で被爆し、一緒にいた母と近くの墓地に避難した後、家の防空壕へ。既に2番目の姉とフミ子がいた。フミ子は苦しげだったが、額を切る大けがを負った安彦を「かわいそうにね」と気遣った。

母は治療を受けさせようとフミ子を救援列車に乗せることにし、後で戻った3番目の姉を付き添わせた。自身は安彦と、勤務先の三菱長崎製鋼所(茂里町)に行ったまま安否の分からない父を待つことにした。フミ子らは9日夜、六地蔵(赤迫)で列車に乗った。

喜々津(諫早市)付近で、フミ子は並んで座っていた3番目の姉に「姉ちゃん、目の前が真っ暗になった」と言い、息を引き取った。翌朝佐世保市の早岐駅で降ろされ、フミ子の遺体は近くの寺で火葬された。

3番目の姉は10日に長崎市へ戻ったが、安彦と母はそのころ諫早市にいた。同日朝まで父は戻らず、母は安彦の治療のため救援列車に乗った。11日、また2人で長崎市に引き返した。

道ノ尾駅で列車を降り防空壕に戻る途中、母は偶然会った父の部下から父の死を知らされた。製鋼所で被爆後に亡くなり、既に土葬されていた。防空壕では3番目の姉が、フミ子の遺骨と一緒に待っていた。

「姉(フミ子)は列車に乗る前、『行きたくない』とずいぶん泣いた。父と姉両方の死に目に会えなかったと、母はすごく悔やんでいた」。安彦は35年前に亡くなった母を振り返る。

救援列車をめぐり一家は悲運に見舞われた。だが安彦は「救援列車がなかったら被爆者はどうなったか。いつ敵機が襲ってくるかも分からない中、よく運行してくれた。当時のことはすべて原爆のせい」と話す。

フミ子が火葬された寺を長年調べてきたが、どこかは今も分からない。「姉(フミ子)は母を恨んでいるかもしれないが、仕方なかった。『母を恨まないで』と伝えたい」。遠くを見るような目でつぶやいた。(敬称略)