硫黄島からの生還 長崎・最後の証言者 9(完)

1947年1月6日。深堀正一郎さんは長崎に帰ったその日、一緒に復員した人たちと記念撮影をした。前列左が深堀さん(深堀さん提供)

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硫黄島からの生還 長崎・最後の証言者 9(完) 帰 国 朝焼けの富士に涙あふれる

2007/08/20 掲載

硫黄島からの生還 長崎・最後の証言者 9(完)

1947年1月6日。深堀正一郎さんは長崎に帰ったその日、一緒に復員した人たちと記念撮影をした。前列左が深堀さん(深堀さん提供)

帰 国 朝焼けの富士に涙あふれる

「一日でも長く硫黄島を守り、本土への攻撃を遅らせたかった。みんなそう思って戦い、死んでいった」。硫黄島から生還した深堀(旧姓・田川)正一郎(88)は、取材の最後にそう語った。

深堀は重い糖尿病でやせ細り、歩くのがつらい。自宅前の階段さえ、手すりにすがってゆっくりゆっくりと上る。話の途中で急に胸を押さえて苦しみ、取材を打ち切ったこともあった。それでも、遠い記憶をたぐり寄せ、時々泣き崩れながら、出征から帰国までの出来事を懸命に語った。

深堀は戦後も、硫黄島をひきずっていた。中でも、自分の命令で陣地の外にいたところを艦砲射撃に遭い、死んでいった中村秀雄のことが気掛かりだった。一九八二年、三十七年ぶりに硫黄島の土を踏んだ。翌八三年には遺骨収集に参加し、陣地があった場所に中村の碑を立てた。遺体を埋めた場所を掘り返したが、骨は見つからなかった。

その後、福岡県にある中村の実家を探し当てた。深堀は中村の最期を家族に語り、土下座して泣いた。「私が殺したようなものです」。母親は黙って聞いていたが、弟らきょうだいは快く迎えてくれた。その時は、少しだけ心が軽くなったような気がした。

◇ ◇ ◇

一九四五年三月二十六日未明。栗林忠道中将をはじめ、生き残った日本兵は総攻撃をかける。

「日本は戦に敗れたりと言えども、いつの日か国民が諸君らの勲功をたたえ、諸君らの霊に涙し黙とうをささげる日が必ずや来るであろう。靖んじて国に殉ずるべし」

抜刀した栗林を先頭に、日本兵が米軍の野営地に忍び寄る。

「かかれー」

激しい銃撃が始まり、日本兵は一人また一人と倒れていく。

(映画「硫黄島からの手紙」)

◇ ◇ ◇

深堀は硫黄島に関する本や資料、映画などを数多く見ている。だが、いつも玉砕のシーンになると、心が震える。「自分も自決すべきだったのではないか」。多くの日本兵が死に、自分は生き残った。戦後六十二年が過ぎても、それを当然と受け入れられない。

一九四六年十二月三十日朝。「富士山が見えたぞ」。ハワイから日本に向かう復員船で、だれかが叫んだ。兵士たちは一斉に甲板に出た。

田川正一郎は長崎市立商業学校(現・長崎商業高)時代の、東京への修学旅行を思い出した。友人は「行きに富士山が見えなかったら、帰りも見えない」と言っていた。硫黄島に出征する時、汽車の窓から富士山は見えなかった。「帰りも見えないということは、戦死するということだ」。そう思っていた。

だが今、朝焼けに染まった富士山が、目の前にそびえている。涙が止まらなかった。(敬称略)