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寄 稿 =原爆は戦争を終わらせたか= 下 現代史研究家
鳥居 民氏 「言い訳」つくった米政権

2007/08/05 掲載

現代史研究家
鳥居 民氏 「言い訳」つくった米政権

長崎に原爆が投下されてから六十二年がたとうとしている。この長い年月のあいだ、私たちは原爆投下に絡んで、数多くの考究を読み、主張や解説を耳にしてきている。

だが、それらの叙述は嘘(うそ)と誤解であふれている。最近問題になった久間章生氏の発言もそのような誤解のひとつである。

原爆投下の決定にいたるいきさつのすべてをねじまげ、隠し、白々(しらじら)しい嘘をつくりあげたのはトルーマン政権の幹部たちである。嘘、嘘と私は書いたが、いささか露骨にすぎるから、「言い訳」と言い換えることにしよう。この言い訳がどのようにしてつくられたかを述べたい。

広島、長崎に原爆を投下してしばらくあと、アメリカ国内で、原爆ならよくて、アウシュビッツのガス室がいけないというのはなぜなのかと問う主張がでた。どうして警告なしに人口の多い都市に原爆を落としたのかとの批判もでた。その残虐な爆弾を都市に投下する軍事的必然性はなかったはずだとの疑問の声もあがった。アメリカ政府の首脳部は日本がすでに降伏したいと願っていたことをはっきり知っていたのではなかったのかとの質問もでた。

原爆投下にたいするこのような疑問、批判の声は小さかったが、段々と大きくなっていくのではないかと大統領トルーマンと政府の関係者は不安を抱いた。トルーマンの行き当たりばったりの弁解ではなく、われわれの行動は正しかったのだとしっかりした反論をおこなおうということになった。こうして一九四七年一月末に刊行されたアメリカの総合雑誌にヘンリー・スティムソンの論文が載ることになった。彼はつぎのように説いた。

原爆を投下しなかったなら、その何倍もの犠牲者がでた。原爆は日本とアメリカ双方の多くの人命を救った。日本側に教示するための原爆実験は不可能であり、直接の軍事的使用のほかに手段はなかった。日本がソ連に和平仲介を求めていたのはまやかしだった。広島と長崎は軍事都市だった。そして日本の鈴木首相はわれわれの最後通牒(つうちょう)を拒否したのだ。

これを読んだアメリカ人は大喜びだった。そのとき八十歳になろうとするスティムソンは政界から引退していたが、フーバー、ルーズベルト、トルーマンの三代の政権で指導的な地位を歴任した、だれからも尊敬される政治家だった。しかも第二次大戦のあいだに陸軍長官だった彼は原爆のすべてを把握し、原爆投下までのすべてにかかわっていたのだと思われていた。当然、彼は真実を語ったものとだれもが信じ、第二次大戦の勝利のあと、ますます強く自分たちの正当性を信じ、倫理的に間違ったことをしていないと思うようになっていたアメリカ人の自己愛を満足させたのである。

だが、そのすべてが鷺(さぎ)を烏(からす)と言いくるめた内容だと承知していたのは、有能な部下とともにその文書をつくったスティムソンその人だった。多くの犠牲を払う日本本土上陸作戦か、それともはるかに少ない犠牲で済む都市への原爆投下の二つのうちのひとつしか選択の道はなかったのだとスティムソンはその文章の中で説いたのだが、実際に彼がやろうとしたのは、天皇保全の条項を加えたポツダム宣言を発表することによって、原爆の投下なしに日本を降伏させようとすることだった。ところが、トルーマンはたったひとりの協力者、国務長官のバーンズとともに、原爆の世界公開は日本の都市上空で爆発させねばならないと思いつめていた。そこで彼はスティムソンのその条項を削ったのである。

スティムソンはトルーマンがやろうとしたこと、やったことすべてに反対だった。だが、彼はアメリカの名誉を守ろうとして、真実から懸け離れた言い訳をつくりあげた。驚いたことにそれから六十年のちの現在まで、彼のその文章はアメリカ人の言い訳として利用され、そこから生まれた誤解が日本人のあいだでも語られることになっているのである。

とりい・たみ 1929年東京都生まれ。膨大な量の資料を調べ上げ、徹底した考察を基に独自の史観を展開。著書に敗戦の年を重層的に描いた「昭和二十年」や「日米開戦の謎」、「近衛文麿『黙』して死す」など多数。