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「語り」の風景 =被爆61年をすぎて= 2 系 譜 怒りぶつけ 生きる気力

2006/08/29 掲載

系 譜 怒りぶつけ 生きる気力

「皆さん、このみじめな姿を見てください」

五十年前の一九五六年八月九日、長崎市で開かれた第二回原水爆禁止世界大会。抱きかかえられ演壇に上がった女性が、秘めた怒りを吐き出した。長崎原爆でけがを負い、下半身不随になった渡辺千恵子さんだ。長崎の「語り部」第一号だった。

大会後、渡辺さんらでつくる「長崎原爆青年乙女の会」と「長崎原爆被災者協議会(被災協)」に「語り部」派遣の要請が全国から押し寄せた。両団体は五五年、五六年に相次ぎ発足。青年乙女の会は「市民平和運動の原点」ともいわれ、被爆者たちは語ることで生きる気力を取り戻した。

渡辺さんは九三年、六十四歳で死去するまで、長崎の反核運動の顔として国内外で声を上げた。「意見の違いはあっても運動を弱めるようなことは決してなさらないでください」。そう願いながら…。

青年乙女の会の結成には、原爆で瀕死(ひんし)の重傷を負った谷口稜曄さん(77)もかかわった。今年五月、被災協会長に就任した谷口さんは、六十一年目の夏も国内外を奔走した。

「痛かった、かゆかった、つらかった。そんな話をしたいのではない。病魔、貧困にあえぎ、世間の白い目にさらされたことに対する必死の叫びなんだ」。赤くただれた背中の写真を掲げ、原爆で一変した人生を語り続ける。

六〇年代、旧ソ連の核実験への対応をめぐり、原水禁運動は分裂。被爆者運動も政治やイデオロギーの違いに左右された。

佐世保への原子力空母入港反対など新たな反核反戦運動の機運が高まった六九年、反原爆の思想を掲げた「長崎の証言の会」が発足。「原爆被爆の実態を語ることこそ私たちの責務である」と呼び掛け、被爆者たちは重い口を開いた。

七〇年には、被爆教師たちが立ち上がり「県被爆教師の会」を結成。被爆した家族の聞き取りや平和教育に乗り出す。八三年には、核兵器廃絶と世界恒久平和を実現する市民の結集を訴え、被爆地の官民が一体となった「長崎平和推進協会」が発足した。

現在、組織的に語り部依頼を受けているのは、同協会継承部会(三十八人)や被災協(十六人)、退職女性教職員県連絡協議会(約十人)などがある。

「戦争を起こしてはいけない。被爆者を二度とつくってはいけない」―。組織が違っても語る理由は同じだ。