被爆61年 語り部の思い 4

着物やずきんを身に着け、戦時中の様子を伝える城臺さん=長崎市女の都4丁目、女の都小

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被爆61年 語り部の思い 4 城臺美彌子さん(67)=長崎市三川町 さらに次世代へ伝承を

2006/07/15 掲載

被爆61年 語り部の思い 4

着物やずきんを身に着け、戦時中の様子を伝える城臺さん=長崎市女の都4丁目、女の都小

城臺美彌子さん(67)=長崎市三川町 さらに次世代へ伝承を

「自分の被爆体験だけで継承はできない。『その時おらんで良かった』で終わる。今の子どもが次世代に伝えられるようにしなければ」。その思いが根底にあるから、子どもたちに話すとき工夫を凝らす。

七月六日、長崎市立女の都小体育館。「日本はもっと領土がほしかったの」。三百十人の児童に世界地図を見せ、日本列島と同じ色に台湾や朝鮮半島、満州などを張り替えた。日清戦争までさかのぼり、原爆投下に至る侵略の経過を伝える。

太平洋戦争中に児童が歌った「勝ち抜く僕ら少国民」を大音量で響かせる。「これを聞き、子どもたちは戦争が大好きになっていった。百人、千人切りましょうって」。どよめきが広がる中、ある男児はこうつぶやいた。「戦争のことしか頭になかったのか…」

当時まとっていた継ぎはぎだらけの着物を女児に着せる。空襲警報のサイレンを流し自身もその着物姿になって、防空壕(ごう)に逃げ込む様子を演じてみせる。視覚や聴覚に訴える手法に児童の反応は大きい。一方、被爆体験を語る時間は短い。

当時は幼かった。父母が中国に仕事で行き、祖母と叔母と暮らしていた六歳時、同市立山の自宅(爆心地から二・四キロ)で被爆。キラッと白い光が見えた瞬間、気を失った。気付くと床下の防空壕に落ちていた。焼けただれた人々や迫るように上空を旋回する米軍機を見て泣き叫んだが、家族は皆無事で悲しみの感情はわかなかった。

「本当の意味で被爆者になった」のは、小学校教諭を退職し一年もたたない一九九八年一月。いつも抱っこしていた生後六カ月の孫娘が寝たまま突然死した。気が狂いそうになり引きこもった。元同僚から「被爆した時は家族を失う悲しみが分からなかったでしょ」と言われた。数カ月後、家族を亡くしても講話を続ける被爆者の姿を見て、自分も命の重みを伝えようと語り部になった。

長崎平和推進協会が語り部に「政治的発言」の自粛を求めた問題では、真っ先に反発。「原爆を今起きている問題につなげないと意味がない」。憲法改正論議などが巻き起こる中、子どもたちに「この国が戦争の準備をした方が良いのか良くないのか考えて」と訴え続ける。