戦争の記憶 4

女子挺身隊や動員学徒が航空魚雷の部品を作ったトンネル工場=川棚町石木郷

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戦争の記憶 4 川棚海軍工廠 石木疎開工場
勝利信じ航空魚雷製造

2005/06/01 掲載

戦争の記憶 4

女子挺身隊や動員学徒が航空魚雷の部品を作ったトンネル工場=川棚町石木郷

川棚海軍工廠 石木疎開工場
勝利信じ航空魚雷製造

一九四四年八月の深夜。東彼川棚町にあった石木国民学校の代用教員だった辻一人さん(79)=同町石木郷=は、自宅近くに建設中だった川棚海軍工廠(しょう)石木疎開工場にいた。

郷民の奉仕活動として一日だけトンネル掘りを手伝った。ダイナマイトで崩した岩石をトロッコで運び出す作業は翌朝まで八時間。煙硝と岩石が入り交じったにおいが充満する中で、坑道は十メートルほど進んだ。

当時は、午前十時ごろになるとB29がぶんぶんうなりながら飛んできて授業にならなかった。「だから作業はつらさより、むしろ戦争必勝の念で奮い立った」

海沿いの百津郷にあった川棚海軍工廠がB29の爆撃から逃れるため、ひと山越えて疎開した軍事機密のトンネル工場。山すそに二十本以上の横穴を掘り、コンクリートで固め工作機械を並べた。真珠湾攻撃などで使用された「九一式航空魚雷」の部品を製造した。

工場には魚雷の専門工員は少なく、女子挺身(ていしん)隊や動員学徒が西日本各地から集められた。九一式航空魚雷製造に携わった関係者でつくる九一会が八五年に発刊した証言集「航空魚雷ノート」が工場の様子を伝える。

「作業は常に足元の絶縁を注意しておかないと漏電による感電の危険にさらされた。感電し、機械の上に倒れた人もいた」(海軍技術大尉)

「十メートル旋盤の自動送りをかけたまま眠ってしまう中学生、回転部分に手を挟んで大けがをする学徒。軍歌や学徒動員の歌を歌っているうちに、歌詞につられ、自然と命なんか軽いものなんだという錯覚に陥った」(海軍技術中尉)

製造は終戦まで続く。戦況を切り開く精神を多くの若者が魚雷に託し、旋盤に向かった。幾つもつるされた裸電球の薄暗い照明の中でペン代わりに鉄を握り、試射が合格すると喜びもした。「ただ夢中で勝利の日を信じていた」(鹿児島県立加治木高女生)

トンネル工場には「防空壕(ごう)掘りの特攻隊」と呼ばれる人たちもいた。ダイナマイトなど危険な仕事に従事した朝鮮人徴用工。

「過酷な労働と惨めさにそう呼んでいた」と語るのは学徒動員で四四年十一月ごろ工場に入った福島瑞郎さん(76)=長崎市大鳥町=。「脱走する朝鮮人がいて、見つかったら最後。『海軍精神注入棒』でぼこぼこにされていた」

福島さんは爆薬を詰めたベニヤ製の水上特攻艇「〇四艇」の船首部分も作った。航空魚雷から特攻兵器へ―。「戦況がひどく緊迫してきたと感じた」と振り返る。

長崎在日朝鮮人の人権を守る会は、住民の聞き取りを基に終戦ごろ川棚町内に千四百人の朝鮮人徴用工がいたと推定。同会が九一年に発刊した「原爆と朝鮮人」第五集の証言によると、じめじめした湿地帯のバラック家屋などに一家族一部屋で暮らし、賃金が出ると郵便局には朝鮮に送金する長い列ができた。

異国で危険と背中合わせに、岩肌に爆薬を仕掛ける毎日に朝鮮人徴用工は「祖国」を思った。終戦とともに川棚からは、ほとんど姿を消した。

朝鮮人徴用工らが造り続けたトンネル工場は今も、草むらの中にひっそりと残る。川棚史談会(小林泰紀会長)は昨年から調査に乗り出した。戦後六十年の今年に向け町内の戦争の記憶を掘り起こす取り組み。

確認できたトンネルは十七本。奥行きの平均は四十七メートル。調査メンバーの松崎賢治さん(75)=川棚町城山町=は工場そばを通り、大村の学校に通った一人。隊列を組み、軍歌を歌いながら工場に入っていく動員学徒の姿を今も覚えている。

そして朽ち果てることなく残る強固なトンネルに思う。「国民は物資不足にあえいだ時、このトンネル工場には優先的に充てられた。戦争を考える縮図がここにはある」

川棚海軍工廠石木疎開工場 1944年初めごろから終戦まで造られたトンネル工場。平均で高さ3.2メートル、幅4メートル。奥は小さな横穴でトンネル同士連結されている部分もある。疎開工場本部跡には天皇の御真影をまつる奉安殿もあった。地面に丈夫なコンクリート壁を建て、上に三角屋根を乗せた半耐爆型工場も残る。