戦争の記憶 1

空襲で破壊された三菱長崎造船所の建物(三菱長崎造船所史料館提供)

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戦争の記憶 1 長崎空襲
原爆前5回 死傷者982人

2005/04/05 掲載

戦争の記憶 1

空襲で破壊された三菱長崎造船所の建物(三菱長崎造船所史料館提供)

長崎空襲
原爆前5回 死傷者982人

戦後六十年たっても悲惨な体験が消え去ることはない。証言する遺構も残る。県内の「戦争の記憶」を地方版で随時掲載する。

一九四四年八月十日深夜から十一日未明。長崎市は初めて米軍の爆撃を受けた。当時飽之浦国民学校二年だった森口貢さん(68)=長崎の証言の会会員=は、三菱長崎造船所近くの自宅直近に焼夷(しょうい)弾が落ちたのを覚えている。

円筒状のものを束ねた形状の油脂焼夷弾。落ちる途中でばらけず、そのまま二階建て民家の屋根を突き通して大きな穴を開けた。不発だったのか、束ねたうちの一つが落下後、れんが塀を黒く焦がした。塀は二、三年前まで残り、見るたびに恐怖心がよみがえった。

長崎市は原爆を投下される前、五回の空襲に見舞われ、計九百八十二人の死傷・行方不明者が出ている。「いつ、死ぬか」。森口さんは米機接近を知らせるサイレンの警報、来襲を告げるけたたましい半鐘におびえた。

自宅近くの裏山の横穴式防空壕(ごう)の中で目をつむり、布団をかぶって震えた。耳もふさいでいたが、爆弾が「ザー、ザー」と空気を引き裂き、雨が降るような音をたて向かってくるのが分かった。そして地響き。

空襲で沈んだ船を長崎港内に見に行った時、突然、黒い水柱が目の前に上がったことがある。驚き、怖くなって一目散にその場から逃げた。米軍が投下した時限爆弾の爆発に遭遇したのだ。

時々、鉄の破片が飛んできて屋根を壊した。日本軍の高射砲の砲弾片か米軍の爆弾の破片か分からないが、周囲がギザギザで触ると熱かった。大きいものは長さが四十―五十センチほどあった。

被害が一番大きかったとされる四五年八月一日の空襲。午前十一時半前、野母崎方面から進入した計五十機の爆撃機が百十二トンの爆弾を投下。三菱長崎造船所は飽の浦のエンジン工場やボイラー工場などが軒並み破壊され、構内に直径十数メートルの大穴が幾つもできた。

造船所関係者だけで百二十四人死亡。「ほとんどの従業員は所外の横穴壕に退避して無事だったが、技師たちは工場内の地下壕に避難したため直撃弾を受けた」と証言するのは同造船所史料館特別嘱託の松本孝さん(83)。当時、造船所の給与係。「三菱には大損害だったのに、翌日の新聞はほとんど触れず。軍が不利な情報を載せさせなかった」。今でもサイレンを聞くと警報を思い出し、ビクッとする。

県立瓊浦中三年で三菱製鋼所に徴用されていた寺井眞澄さん(74)は浦上駅近くに下宿。空襲の時、軒下に掘った浴槽大の防空壕の中にいて腰まで土に埋まって出られず、「生きた心地がしなかった」。道路向かいの町内の共同防空壕が直撃を受け五、六人が爆死。手足がちぎれ飛び、誰か見分けがつかなかった光景は忘れられない。

敗戦近くになると、爆撃機だけでなく戦闘機も襲来。突然現れ、パイロットの顔が見えるほどの低空で地上の市民めがけ機銃掃射を浴びせた。「戦闘機に追われ殺されそうになる夢をよく見た。夢に出なくなったのは最近。一種のトラウマ(心的外傷)でしょう」と森口さん。

不安を募らせた両親の計らいで佐賀県に避難。原爆の直撃は免れたが入市被爆。「原爆も一般空襲も戦争の悲惨さという意味で無視できないが、長崎では原爆被害に埋もれて空襲の犠牲はほとんど語られない」。森口さんは指摘する。

空襲 長崎県警察史によると、1944年7月から45年8月までの間、原爆投下を除き、米軍のB29爆撃機などによる空襲が大村18回、長崎5回、佐世保4回を中心に県内各地で合計51回を数えた。