世界へ
核戦争の脅威訴える旅
欧州限定の核戦争の危機が叫ばれた一九八二年、世界規模で反核運動の機運が高まった。秋月の新たな「反核の旅」が始まった年でもあった。米・ニューヨークでの「第二回国連軍縮特別総会」。バチカン市国でのローマ法王との謁見(えっけん)。ロンドン、モスクワへと、その旅は続いた。
「”その時”医学は無力である」。この年の六月、旅の始まりとなったニューヨークのシンポジウムで秋月は訴えた。「原爆のあとの浦上で無力に打ちのめされた医者は私である。現代の医学が、核戦争にいかに無力であるかということを語っている」
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同じ代表団に加わった長崎大教授の高橋眞司(63)は、秋月の告白に心を打たれた。「過去から未来を見つめた現実的な根拠のある証言。とても新しさを感じた」。その理念は八一年に結成され、のちにノーベル平和賞を受けた「核戦争防止国際医師会議」(IPPNW)に受け継がれる。
長年親交を深めた高橋は言う。「秋月さんは自らも結核を患い、病気に対する恐れを抱いていた。苦しむ人への強い共感力を持っていた」。高橋は秋月生来の温かさを見た上で、世界を舞台にした反核運動をこう評する。「死んでいった被爆者への負い目から、人間としてしなければならない、じっとしていられないという切実さだったのではないか」
秋月は特別総会に出席した時、世界の宗教者に反核を説く必要性に気づいた。帰国の翌月にはバチカン市国に飛び、長崎の被爆者、片岡ツヨらとともに原爆記録映画「にんげんをかえせ」をローマ法王ヨハネ・パウロ二世に贈った。
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「原爆投下は神の摂理」―。長崎医科大の先輩、故永井隆が唱えた「浦上燔祭(はんさい)説」。秋月は決然と異を唱えた。「私は、永井先生の『浦上の人々は天主から最も愛されているから、何度でも苦しまねばならぬ』といった考え方にはついていけない」(「長崎原爆記」)
七〇年代から、証言活動を軸に沈黙する被爆者に「語り残す大切さ」を説いていた秋月。それでも、片岡のような浦上の被爆者の心に澱(おり)のように重なっていた永井の思想。しかし、法王の言葉が秋月をその呪縛(じゅばく)から解き放った。「戦争は人間の仕業です」―。
片岡も、秋月とともに法王の言葉を聞いた後、こう言い残している。「私は天にも昇る心地で、心の底から『生きていてよかった』と叫びました」(長崎平和推進協会発刊『ピース・トーク』総集編)。
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その後も秋月は、核戦争の脅威を訴えながら、核兵器を造り、使った人間の残虐性を問い続けていく。(文中敬称略)