平和の石碑
 =ストーン・ウオーク同行記= 2

ストーン・ウオークを先導する吉田勲さん=諫早市内

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平和の石碑 =ストーン・ウオーク同行記= 2 苦 難
吉田 勲さん 被爆者◆ 若者の笑顔励みに奔走

2005/07/08 掲載

平和の石碑
 =ストーン・ウオーク同行記= 2

ストーン・ウオークを先導する吉田勲さん=諫早市内

苦 難
吉田 勲さん 被爆者◆ 若者の笑顔励みに奔走

「出発します。はいレッツゴー」―。ストーン・ウオーク二日目を迎えた三日朝、恰幅(かっぷく)のいい男性の大きな掛け声で、荷車はゆっくり動き始めた。被爆者の吉田勲さん(64)=長崎市古賀町=。実行委の一員として、計画当初から諸準備に携わってきた一人だ。「昨日も歩いたからね、さすがに疲れは残ってるよ」

コース設定、宿泊所の手配―。出発の直前まで裏方で走り回り、この日は前日に続いての交通誘導係。だが、行列の先頭で赤い誘導棒を振りかざす姿はエネルギッシュだ。

四歳のとき、爆心地から約三・九キロの自宅で被爆。飛んできた屋根の破片で切った傷が、今も口元に残る。幼少の時は白血球の数が少なく、「小学生時代に付いたあだ名は『かさぶた野郎』。けがの治りが遅く、全身かさぶただらけだったからね。みんなおれに距離を置いていたんじゃないかなあ」。

被爆五十年を翌年に控えた一九九四年、長崎被災協への入会をきっかけに平和運動にかかわった。その後、せきを切ったようにあらゆる活動の場に顔を出す日々。「原爆の記憶が残る最後の年代だし、悔いだけは残したくない。でも今回の企画を聞いたときにはさすがに、『アメリカ人はえらいことを思い付くなあ』と思ったよ」

この日の移動は、東長崎から大村までの約二十五キロ。四日間の行程で最長となる。「大型車両との離合が心配。今日は気を使うよ」(吉田さん)。午前十時ごろ、大学生ら五十人を超える大行列は案の定、交通渋滞をつくってしまい、警察から”待機命令”。駆け付けた警察官の誘導で再び出発したときには、予定より一時間遅れ。日程担当でもある吉田さんの時間との闘いが始まった。

腕時計を何度も見詰めながら昼食場所の変更を決意。諫早市中心部の通過を急きょ取りやめ、大村への最短ルートを取った。夕方のラッシュに巻き込まれながらも、予定時間より十分早い午後四時五十分、目的地の鈴田峠に到着した。「二日間で歩いた距離は四十二キロ。元気な若者たちの明るい笑顔が励みになった。僕の(平和への)思いも少しは伝わってくれたかな」。疲れ果た吉田さんの顔には、未来への希望がみなぎった。