62年目の検証
 =原爆戦災誌改訂へ= 4

原爆に焦点を絞ったリーフレットの詳細を記した「米軍資料 原爆投下報告書 パンプキンと広島・長崎」

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62年目の検証 =原爆戦災誌改訂へ= 4 宣伝単(下) 米軍報告書に記述

2004/07/30 掲載

62年目の検証
 =原爆戦災誌改訂へ= 4

原爆に焦点を絞ったリーフレットの詳細を記した「米軍資料 原爆投下報告書 パンプキンと広島・長崎」

宣伝単(下) 米軍報告書に記述

一九九三年九月、原爆に関する米国の資料が日本語に翻訳され、一冊の本になった。「米軍資料 原爆投下報告書 パンプキンと広島・長崎」(東方出版)。原爆投下の計画から実行に至る過程を記録した全二百五十八ページの中に、「心理作戦」と題した項目がある。

この項によると―。当時の太平洋艦隊司令部所属の高等心理作戦局は、広島原爆投下後の八月七日、原爆に焦点を絞った心理作戦を計画した。「十万人以上の人口を有する日本の都市に、九日間にわたって、毎日、三百六十万枚のリーフレットを投下するように立案された」とある。

ビラの原稿は太平洋艦隊司令部の将校によって書かれ「印刷は八月十日の夕方まで続いた」。途中、ソ連の宣戦布告で文言に一部変更が加えられたため、ビラは宣戦布告前に印刷された「AB―11」と、布告後の「AB―12」の二種類があった。

さらに「AB―11」が九日から十日朝にかけ、長崎、大阪、福岡、東京の四都市に投下されていた事実が判明した。

長崎原爆戦災誌の改訂作業を進める荒木正人は「当時、米国の暫定委員会は、事前警告なしに原爆を使用することを決定していた事実もある。同じビラが他の都市にもまかれており、少なくとも長崎への原爆投下を予告した性質のものではない」と言い切る。

さらに、ビラをめぐる被爆者のこれまでの証言について、あらためて分析を加えた。

「『原爆投下後に拾った』と話す被爆者は本物のビラを所有しており、日時や場所を具体的に証明できる。だが、『投下前』と主張する人は証明する現物を持っていない。証言に若干あいまいな点もあり、日本国民の戦意喪失などを狙った他のビラと混同している可能性が高い」

そして荒木は一つの結論を導いた。長崎にビラがまかれた日時は、関係者の証言や資料などから判断し、原爆投下後の「九日夜から十日未明」。ソ連の宣戦布告の内容が記されていないことから、長崎にまかれたビラの種類はリーフレット「AB―11」。

原爆リーフレット作戦は、八月十日夜、日本が和平交渉に応じる意思を表明したため打ち切られたという。

「ビラは投下後の焼け野原にまいた心理作戦とみるのが妥当。米国は長崎に事前警告などしていなかった。この本から当時の米国の動きを引用し、(原爆戦災誌の)宣伝単の項目を差し替えたい」。荒木はペンを持つ手に力を込めた。(文中敬称略)