壁に挑む
 =原爆症集団申請= 2

「一人ひとりの現実を国は認識しようとしているのか」と話す庄野順子さん=長崎市緑が丘町

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壁に挑む =原爆症集団申請= 2 2キロ以遠 病と闘う現実 認めて
庄野順子さん(62)
=長崎市緑が丘町=

2002/08/02 掲載

壁に挑む
 =原爆症集団申請= 2

「一人ひとりの現実を国は認識しようとしているのか」と話す庄野順子さん=長崎市緑が丘町

2キロ以遠 病と闘う現実 認めて
庄野順子さん(62)
=長崎市緑が丘町=

「同じ被爆者でも病気はさまざま。距離だけでは何も判断できないはず」。原爆症の認定審査で、厚生労働省は被爆距離を重視している。庄野順子さんは、国が言う「距離」に異議を突き付けようと、日本被団協の集団申請に加わった。

庄野さんの被爆距離は二・五キロ。現在の認定審査が採用している被ばく線量推定方式DS86は、被爆距離二キロ以遠の人の疾病を認定しない傾向が強いとされる。

一九九八年九月、胃がんが見つかり手術。昨年、大動脈瘤(りゅう)にがんが転移。症例がめったにない病気で、一時は手術も無理と言われたが、十一月に再手術を受けた。

抗がん剤治療による脱毛。退院後、手に現れる紫色の斑点。今も抗がん剤を服用している。「一人ひとりの現実を、国は認識しようとしているのだろうか」。庄野さんは認定審査の在り方に疑念を募らせる。

長崎原爆松谷訴訟は、被爆距離二・四五キロの松谷英子さんと、DS86を盾にする国との闘いだった。十二年の裁判の末、最高裁は松谷さんの原爆症を認めた。

それは、疾病への放射線の影響を被爆距離で一律に線引きすることはできない―という証しとなるはずだった。しかし、判決以降も国の審査で二キロ以遠の被爆者が救済されることはなかった。被団協は「審査はむしろ厳しくなっている」と反発する。

「入院していた病院で、がんが転移しメスを入れ続けた人、リンパ節が皮膚から出てきた人―そうした人たちの壮絶な生きざま、死にざまを見た。自分の痛さ以上に人のつらさが身に染みた」。苦しむ人たちの思いが、今も庄野さんの胸を締め付ける。

庄野さんは、だから認定申請したのだという。被爆者だった夫の兄弟もがんで死んだ。庄野さん自身も「病身をいたわり、だましながら生きている」。襲いかかる不安を振り払うことはできない。ただ、自分が決めた行動の結末は、見届けなければならない。

あの日 爆心地から二・五キロの長崎市平戸小屋町で被爆。当時五歳。兄と一歳半の妹と三人で、近所のかき氷屋の縁台に座って、かき氷を待っていた。ピカッ。大きな光が見えた瞬間、兄は姉妹を両脇に抱えて、地面に伏せた。三人とも外傷はなかった。だが、上半身裸だったかき氷屋の男性はやけどを負い、四年後に亡くなった。