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ナガサキの思想と永井隆 =没後50回目の夏に= 1 「原爆は神の摂理」か

2000/08/01 掲載

「原爆は神の摂理」か

五年前の被爆五十周年を前後して長崎で二つの論文が発表され波紋を広げた。
◆再燃する論争

最初に一石を投じたのは長崎大学教育学部教授(社会学)の高橋真司(58)。九四年出版の著書『長崎にあって哲学する―核時代の死と生』の中に「長崎原爆の思想化をめぐって―永井隆と浦上燔祭説」と題した永井批判の論文を収録した。 もう一つは長崎純心大学学長、片岡千鶴子(63)が九六年に出版した「被爆地長崎の再建」。高橋の永井論とは正反対の見方を示した。被爆から半世紀を経て永井論争が、新しい論客の手で現代長崎の重要な問題として再び提起されたところに新鮮な衝撃があった。

まず高橋の永井批判を見てみよう。高橋は「占領下、永井の意図はどうあれ、その言説は日米支配層によって政治的に利用された」と主張。永井が四五年十一月二十三日、浦上カトリック信徒代表として読み上げた『原子爆弾死者合同葬弔辞』に注目する。永井は次のように述べている。

「原爆は神の摂理によって、この地点にもち来らされた」「世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ、燃やされるべき子羊として選ばれた」「戦乱の闇まさに終わり、平和の光りさし出づる八月九日、この天主堂の大前に焔を上げたる、ああ、大いなる燔(はん)祭よ!悲しみの極みのうちにも、私らはそれを、あな美し、あな潔し、あな尊しと仰ぎ見た」「浦上が選ばれて燔祭に供えられたる事を感謝致します」

永井は『長崎の鐘』の中でも「原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝をささげねばならぬ」と述べている。

燔祭とは、いけにえの宗教儀式。高橋は、永井の説を「浦上燔祭論」と名付け、その背景に、長崎の街が、浦上のカトリックに対する差別を内包していた問題があることを無視できない、と指摘する。「浦上の信徒たちは原爆の犠牲をこうむったうえに、心ない旧市街の人々から“原爆は天罰”とささやかれ、苦悩していた。永井の意図が、こうした信徒の気持ちを慰め、励ますことにあったことは察しがつく」と理解を示す。

◆政治的な役割

だが、高橋は「問題はそこにとどまらなかった」と続け、「仮に原爆が神の摂理であるとするならば、無謀な十五年戦争を開始、遂行し、戦争の終結を遅延させた、天皇を頂点とする日本国家の最高責任者の責任は免除されることになる。同様に原子爆弾を使用したアメリカ合衆国の最高責任者たちの責任もまた免除されることになる。浦上燔祭論の果たした歴史的役割は、日本の戦争責任とアメリカの原爆投下責任の“二重の免責”にあった」と断罪する。

当時は占領軍のプレスコード(四五年九月指令)によって厳しい言論統制が行われ、原爆に関する報道や調査研究は禁止されていた。にもかかわらず、永井の作品は次々と発表が許可された。「二重の免責の功績があったからこそ、そのような特典に預かったのだ」

永井に対する昭和天皇の慰問(四九年)、内閣総理大臣表彰(五〇年)などについても、高橋は「相次ぐ政治的引き立ては、そうした永井の役割への報奨だった」と言い、「永井が引き立てられるほどに一般の被爆者は沈黙を強いられ、怒りの広島とは対照的に、祈りの長崎の性格が形作られていった」と語る。(敬称略)