新興善国民学校屋上から北西の長崎駅方面を望む(林重男氏撮影、長崎原爆資料館所蔵)

ピースサイト関連企画

戦後73年・被爆73年 表現者たち 鎮魂のうた 降旗良知医師の記憶〈1〉 痛烈な心の調べ 生死と直面 終生忘れず

2018/08/08 掲載

新興善国民学校屋上から北西の長崎駅方面を望む(林重男氏撮影、長崎原爆資料館所蔵)

痛烈な心の調べ 生死と直面 終生忘れず

 ことし開館10周年を迎えた長崎市立図書館(同市興善町)の一角に、「救護所メモリアル」が設けられている。戦時中、同館の場所にあった新興善国民学校は被爆直後に救護所となり、多くの負傷者が運び込まれた。診察室として利用された職員室と廊下の一部が現在、再現されている。その廊下の片隅に、1冊の冊子がある。救護所で被爆者の治療に携わった医師の一人、降旗良知(ふりはたりょうち)(2007年に85歳で死去)の歌集「鎮魂」。収録されている歌の一つ一つから、原爆の記憶をたどった。
 長崎原爆から46年後の1991年3月初旬、長野県松本市で、開業医として地域医療に当たっていた降旗は、突き動かされるように短歌を詠んだ。その時、69歳。湾岸戦争の終結を見て、被爆直後の長崎で救護活動に当たった10日間の記憶が、「痛烈な心の調べ」となって次々とあふれ出したのだった。
 残虐な原爆の犠牲となった人々の命を、なすすべもなく救えなかった無念-。医師として直面した過酷な体験を率直に表現した70首を、私家版歌集「鎮魂」にまとめた。被爆者の生死を見つめた若き医師が、終生忘れ得なかった記憶だった。
 降旗は歌集の中で、「偶然にも噴き上がって来たもので果たしてこういう作品が短歌といえるかどうか。(略)当時二十四才であった私の鮮烈な想い出は今日にいたっても消えることなく、事実作歌にあたりなほ声を放って哭(こく)することすらあった」と書いている。
 1921年、松本市生まれ。45年に名古屋帝国大(現・名古屋大)医学部を卒業後、戸塚衛生学校に入学し、軍医としての訓練を受けた。軍医科見習尉(い)官として長崎県針尾海兵団に勤務していたとき、長崎に原爆が落とされた。同海兵団の第2次救護隊として長崎に派遣され、同年8月17日から10日間、新興善国民学校に設置された救護所で被爆者の治療に当たった。
 降旗は歌集を編む前、78年2月に救護活動の記録を手記「長崎原爆治療の想い出」につづっている。この手記によって、歌の背景をより詳細に知ることができる。

 死臭に集(つど)ふ 烏(からす) なるかな 秋空の 空の高処(たかど)に舞いいたるかな
 轟々と火や通りけむ 灰となりし 人の形は動くともなし
 瓦礫(がれき)の中の 完全灰化せる頭骨の まなこうつろに風なきに散る

 第2次救護隊として爆心地近くに到着したときの歌である。