「戦争は人殺し」父の生々しい記憶 満州での戦闘、シベリア抑留…太平洋戦争開戦81年

2022/12/08 [10:00] 公開

遺品である旧日本軍に関する書籍を見ながら、父の記憶を語る中田利幸さん=長崎市内の自宅

 太平洋戦争開戦から8日で81年。長崎市中里町の中田利幸さん(69)は大正生まれで旧日本陸軍の職業軍人だった父、貢さん=1997年、81歳で死去=が生前、「戦争は人殺し」と折に触れ語っていた生々しい体験が今も頭から離れない。戦争体験者が減少する中で自身も高齢化し、貢さんの体験を後世に残したいと考えて、長崎新聞の取材に記憶を語った。

 「これは軍曹、こっちは伍長だな」。貢さんは日本で62~67年に放送された米国のドラマ「コンバット!」が好きだった。第2次世界大戦下の米陸軍兵の物語。利幸さんが中学生の頃、一緒にテレビを見ながら戦時中を思い出しているようだった。時折、10代後半で陸軍に入隊した自身の体験を聞かせてくれたという。
 詳しい戦歴などは不明だが、厳しい訓練や心ない言葉、暴力にも耐え抜き、26歳で中尉に昇進。29歳で終戦を迎える頃には多くの部下がいた。特に、満州(現在の中国東北部)でのつらい思い出を語る姿が忘れられない。

中尉だった26歳ごろと思われる貢さん(遺族提供)

 鉢合わせになった敵をよく見ると、まだ幼さが残る少年兵。「向かって来る相手を殺さんと、自分が殺される。一瞬迷ったが、銃剣で刺し殺した」。声に力はなく、下を向いて悲しげだった。戦闘が終わり敵がいなくなったのを確認してから「あんなに小さな子を戦争に駆り出すなんて」と部下たちと涙を流した。「これが戦争ぞ、よう聞いとけ」。胸に突き刺さる言葉だった。
 終戦間際に満州へ侵攻した旧ソ連軍が、拘束した日本兵らを強制労働に従事させたシベリア抑留も経験。寒さを通り越し、痛いほどの極寒の中で素っ裸にされてむち打たれ、家畜以下の扱いを受けた。いつ銃殺されるかも分からず、命を落とした仲間や部下の亡きがらを埋める穴を掘らされた。「自分もそのうち、この穴に放り込まれる」と、当時感じた恐怖を語った。
 日本へ帰還したのは終戦の7年後。太平洋戦争開戦前後に結婚したが、戦地にいたため写真でしか見たことがなかったという妻の久枝さん(故人)と暮らしたい一心だった。胸板が厚く立派だった体は痩せ細り、服はぼろぼろ。やっとの思いで帰り着いた長崎の実家では「何で生きて帰った」と罵声を浴び、墓も作られていた。妻は牛小屋の薄暗く狭い物置に住まい、下働きを強いられていた。
 戦争の話をした後は、決まってこう締めた。「戦争は怖い。絶対すんなよ」。貢さんは60歳を過ぎても戦争の悪夢にうなされ、大声で苦しがっていた。くしくも12月8日は貢さんの誕生日。「開戦と同じ日に生まれたけん、生きて帰れたんやろな」とよく話していたことも記憶に残っている。
 「こういう現実があったことを知ってほしい」。利幸さんは70歳を前に一念発起し、自身の記憶を初めて文章に書き起こして長崎新聞に投稿した。「父が言っていたように、戦争は何があってもしてはいけない」と話した。