「いつもそばに戦争があった」 体験振り返る本出版 池田アヤ子さん(92)

2022/08/16 [10:00] 公開

自費出版した「ひとすじの白い小道」を手にする池田さん=諫早市本明町

 長崎県諫早市本明町の池田アヤ子さん(92)は昨年11月、著書「ひとすじの白い小道」を自費出版した。「今思えば、いつも自分のそばに戦争があった。話せるうちに体験したことを次世代に伝えておかなければ」。息子の勧めもあり、3カ月かけて人生を振り返り本にまとめた。
 池田さんは1929(昭和4)年、愛野村(現雲仙市)に8人きょうだいの長女として誕生した。4歳の時、子どもがいなかった伯母夫婦の養女となり、静岡県熱海町(現熱海市)で多感な少女時代を過ごした。実業家だった義父は懐が深くおおらかな人柄で、愛情を持って育ててくれた。
 小学6年の12月、真珠湾攻撃のニュースがラジオで流れ、学校の黒板には「聖戦の秋(とき)来る」と記された。翌年入学した熱海市立高等女学校(現県立熱海高)は、授業でハワイの歌を歌うなど自由な雰囲気があったが、2年の時、敵性語として英語の授業がなくなった。
 町では、鉄砲の弾が当たらないとされた千人針や、慰問袋を作り、戦地へと送っていた。日常の様子を手紙に書くと兵隊に喜ばれるというので、何通も書いて慰問袋に入れた。戦況が悪くなってきて、池田さんは学徒動員として沼津海軍工廠(こうしょう)に配属され、変圧器のコイルを巻く作業などに従事した。「私たちは天皇の赤子(せきし)である」と、最後の一人になるまで戦うことを教育され、本土決戦に備えた竹やり訓練に何の疑問も持たない軍国少女になっていた。家族は「この戦争は負けるよ」と言っていたが、「そんなことを言っては駄目」とたしなめた。天皇のために死ぬのだ、死ぬのは仕方ないし怖くないと心から思っていた。「今思うとばかみたい」と当時を振り返る。
 ある日、自宅近くに米軍の戦闘機が飛来。バリバリという機銃掃射のすごい音がした。「やられる!」。とっさに押し入れに飛び込んだ。戦争を一番身近に感じた瞬間だった。幸い、けがはなく家の損傷もなかったが、近くの初島では操業中の漁師が撃たれ、血の海になっていたと後で聞いた。熱海町は焼夷(しょうい)弾による空襲はなかった。45年3月の東京大空襲や8月の新型爆弾投下のニュースはラジオで聞いた。
 8月15日の玉音放送を女学校で聴いたが、難しい言葉が多く、よくわからなかった。「総力を将来の建設に傾け」という言葉があったので、天皇のもとでまた新しい国をつくるのかと思った。日本が負けたなんてしばらく信じられなかった。
 家の都合で古里の愛野村へ戻った9月、県立諫早高等女学校(現諫早高)4年に転入。通学中、諫早駅には長崎で被爆した人を佐世保海軍病院諫早分院(現諫早総合病院)へ運ぶため、人だかりができていた。ぞっとして、見ることができないほど怖かった。一緒にいた友人は、被爆者が通った後にうじ虫がはっていたと話していた。被爆者をたんかで病院へ運んだ1歳上の兄は、あまりの凄惨(せいさん)な光景に、ご飯も喉を通らない日々が続いた。駅の正面に見える丘からは毎日、遺体を焼く煙が立ち上っていた。
 翌年、兄に連れられて初めて長崎を訪れた。1年たっても浦上の丘は焼け野原のままだった。被爆者健康手帳を持っていた兄は94年、66歳の時にがんで亡くなった。
 「ロシアとウクライナの戦争で、核の脅威を身近に感じる今、機銃掃射から逃げようと押し入れに飛び込んだこと、焼け野原だった長崎の光景などが昨日のことのように目に浮かぶ。若い人はなかなか想像できないと思うが、実際にあった出来事。同じ過ちを犯さないためにも、戦争体験を語り継いでいくことが大切」
 著書には戦後、苦労しながら必死に働き、幸せな日常を手に入れるまでの日々もつづった。穏やかな語り口に、平和への切実な願いが込められていた。