長崎原爆で父奪われ… ピアニスト・大塚和子さんの足跡<上> 「非国民」と呼ばれても弾いた

2022/02/24 [12:30] 公開

和子さんが生前に愛用していたピアノと遺影=長崎市内

 昨年8月、あるピアニストが天国へ旅立った。長崎市で、半世紀近く大学の音楽講師を務めた大塚和子さん=享年(92)=。戦中に「非国民」と呼ばれながら続けたピアノ、父を奪った長崎原爆、戦後間もない米国留学-。激動の時代を生き抜き、晩年まで多くの教え子たちに慕われた。残された手記や家族の話から、その足跡をたどる。
 和子さんは1929年、長崎市中心部で楽器店や映画館を営む父勉さん、母ミツさんの長女として生まれた。ピアノを習い始めたのは6歳。手記にはこうある。

 〈音楽好きの父が自分のかなわなかった夢を私に託したようで、私が生まれる前から外国版の楽譜をたくさん買い込んでいた〉

 師事したのは、ロシア革命後に長崎へ逃れたロシア貴族女性。祖国の音楽院を卒業した音楽教授で、和子さんは週1回、南山手の洋館で手ほどきを受けた。
 41年、12歳の時に太平洋戦争が開戦。洋楽に親しむ一家は、やがて「非国民」と呼ばれた。

 〈ピアノを弾いていると新聞紙に小石と馬ふんを包んだ物が窓ガラスを破って飛んで来るようになり、極力音が外にもれないよう工夫して練習していた〉

 2年後、和子さんは学徒動員のため飽の浦町の三菱長崎造船所に配属。東長崎にある疎開先の祖父母宅から、片道約10キロを2時間かけて通った。

 〈何やら分からない仕事を朝9時から夕方6時までやらされる。軍のヒミツ情報らしい暗号を使った書類を謄写版使ったり整理したり。一日中立ちっぱなし〉

 45年8月1日には造船所が大規模空襲を受け、多くの学生らが命を落とした。和子さんは恐怖のため翌日から休み、復帰したのが9日だった。午前11時2分、長崎原爆がさく裂。和子さんは爆心地から3キロ余りの造船所にいた。

 〈爆風で吹き飛ばされ壁にたたきつけられ気を失う。気が付くと全身にガラスの破片がささり血だらけ、手当てできる状態でもなく夕方まで稲佐山の壕(ごう)の中で過ごした〉

 〈長崎駅の方まで向かった。途中の光景は思い出してもゾッとする。あちこちに火事が起こっており電車も丸こげ枠組みだけ。中にはたくさんの人、道路には人間、馬、牛の死体が転がっている。怖くて泣きながら通り抜けた〉

 途中でトラックに乗せてもらい、何とか東長崎にたどり着いた。深夜になり、三菱長崎兵器製作所大橋工場で被爆した父勉さんが、リヤカーに乗せられ帰宅。原爆の熱線で焼けただれた皮膚がバナナの皮のように垂れ下がっていた。父のうめき声は一晩中続いた。
 15日に終戦。翌日、少し体調を持ち直した勉さんが言った。「和子、連弾しようか?」。和子さんは幼い頃を思い出し、喜んで父と鍵盤に向かった。曲はシューベルトの軍隊マーチ。明るく元気な音色が響いた。
 しかしこの日を境に、勉さんの体調は悪化する。

 〈父の生命の火はだんだんと落ちていき、8月21日の未明に亡くなる。満月の美しい夜だった〉

和子さんが残した手記と父勉さんの写真