「勝つと疑わなかった。“戦争乙女”やったから」 田川照子さん(96)=長崎市若草町= 血が沸き立つ感覚味わった

2022/01/31 [12:30] 公開

両親の写真を見せながら思い出を語る田川さん=長崎市内の自宅

 「勝つぞ勝つぞ、必ず勝つ」。約80年前に太平洋戦争開戦のニュースを聞いた時、当時16歳だった田川照子さん(96)は血が沸き立つような感覚を味わった。「日本が負けることがあるなんて疑わんかった。“戦争乙女”やったから」。
 田川さんは8人きょうだいの長女。開戦日の12月8日を迎えるたびに父とのやりとりを思い出す。「日本は何を考えているのか。物資のない国が戦争に勝つわけがない」。「そんなこと言ったら駄目よ。警察に捕まるよ」。田川さんは慌てていさめたが、結局、父が言った通りになった。
 家が貧しかったため父は尋常小を3年で卒業。用務員として長与の尋常高等小で働いた。掃除などの仕事をしながら、廊下に聞こえる教師の声で勉強する熱心さから、教室に迎え入れられ、そろばんなどを身に付けたと聞いた。よく中央公論などの本を読み、勉強が大好きな人だった。
 田川さんが10歳の時、両親は長崎市岩川町に家を買い、旅館を始めた。出入りしていたのは、修繕のため長崎に入港する「羽黒」「三隈」といった軍艦の海軍さんたち。両親のことを「お父さん、お母さん」と呼んで慕い、田川さんも「てるちゃん」とかわいがられ、勉強を教わった。
 海軍さんが真っ黒な顔で帰ってきたことがあった。「どうしたと?」。驚いて尋ねると、船が爆撃を受けたので海に飛び込み、海面を漂う重油にまみれたのだという。けれどもこれは、市民が一切知ることのない話。ラジオも新聞も、本当のことは教えてくれなかった。「負けとってでも『勝った、勝った』って言うイタチのけんかと一緒」。父はどこか冷めた目で世を見つめていたのだと思う。開戦前の1941年4月ごろ、旅館は強制疎開のため立ち退きを強いられ、廃業した。両親らは父が育った同市三ツ山町へ疎開し、田川さんは同市竹の久保町(現在の淵町)の兄の家で暮らした。
 4年後、田川さんは町内の病院に義姉を見舞っている時に被爆。幸いかすり傷程度で済み、翌日に三ツ山町へ逃れた。10日ほどたったころ、薄暗い中を向山さんという海軍さんが佐世保から訪ねて来た。「お父さんお母さん、元気?」。長崎が壊滅的と聞いて駆け付けてくれたその人は、田川さん一家がカトリック信者だったことを思い出し、浦上天主堂を訪ね、一家の行き先を調べて無事を確かめに来てくれたのだ。
 「間違って西山の方の三ツ山口に行ったそうで、日暮れごろに来ましたよ。うれしかったですねぇ」。向山さんを含む3人の海軍さんとは、5年ほど前まで約70年以上も年賀状などのやりとりが続いた。
 当時の軍国教育を振り返ると「すごい教育ですよ、本当に。今考えればね」。動乱の時流を生きた元戦争乙女は笑いながら、あっけらかんと言い捨てた。

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