豊かな山と海が広がり、南北に約82キロと国内有数の面積を誇る離島・対馬。島の中間点に位置し、北部の「上島[かみじま]」と南部の「下島[しもじま]」を結ぶのが万関橋[まんぜきばし](全長210メートル、幅10メートル)。鮮やかな赤色のアーチは島のランドマークだ。
橋が架かる場所は元々、陸続きだった。明治後期の1900年、南下政策を進めるロシアとの間で戦争が迫っていた頃、旧日本海軍が、艦船の通航を可能とするため開削。人工運河の「万関瀬戸」が造られ、初代の万関橋が架けられた。
日露戦争末期の05年、対馬海峡を舞台とする日本海海戦では、日本の連合艦隊と、ロシアのバルチック艦隊が激しい戦闘を繰り広げた。かつて対馬市美津島町に拠点を置いた水雷艇部隊も、万関瀬戸を通って出撃していった。
橋は次第に腐食が進み、56年に2代目に架け替えられた。40年間、島民に親しまれたが、老朽化に加え、交通量の増加や車両の大型化に対応するため、96年、現在の3代目に架け直された。2代目に比べ、長さも幅も倍増。1車線が2車線になった。地元郷土史家の小松津代志さん(73)=同市厳原町=は「今の橋になって交通が便利になった。万関橋は対馬の“大動脈”だ」と語る。
その言葉通り、万関橋は対馬の物流になくてはならない存在だ。管理する県対馬振興局によると、車両の通行量は1日当たり6400台。下島にある厳原港に到着した本土からのさまざまな物品は、この橋を通って北部へと運ばれる。陸路で往来できる唯一のルートであり、小松さんは「橋に万が一のことがあったら一大事。第二の万関橋を造ることも考えないといけないのでは」とも話す。
眺望が良く、対馬有数の観光名所としても親しまれている。橋のすぐ近くで約40年間続くレストラン「やすらぎ」の小島正士さん(66)、はるみさん(56)夫妻=同市美津島町=によると、橋の下方に広がる三浦湾内では渦潮が見られる。コロナ禍前までは、カメラ片手に撮影を楽しむ日本人や韓国人観光客の姿が橋の風景の一部だった。
戦争の歴史を背景に架けられ、今では市民生活に欠かせない万関橋。正士さんは「通勤で毎日通る。生活の一部」。はるみさんは「多くの人でにぎわっているのを見るのは楽しかった」としみじみと語る。再び、そんな日が戻ってくるのを夫妻は心待ちにしている。
【動画】橋物語・万関橋(対馬) 対馬の“大動脈”
2021/11/08 [00:00] 公開