「兄ちゃん お帰り…」 タラワで戦死 77年ぶり 弟の元へ

2021/02/27 [11:05] 公開

自宅で、「兄ちゃん、お帰り」と野村正敏さんの遺骨を抱く貞之さん=長崎市田上3丁目

 南太平洋のタラワで見つかった遺骨が太平洋戦争中に戦死した長崎市出身の野村正敏さん(享年23)であると判明し、26日、弟の貞之さん(92)=同市田上3丁目=の元に“帰還”した。約77年ぶりの再会に、貞之さんは「うれしい。言葉にならない」と語った。
 正敏さんは旧海軍佐世保鎮守府の第7特別陸戦隊に所属し、1943(昭和18)年11月、キリバス・ギルバート諸島のタラワで戦死した。タラワでは米国側との激戦の末に日本側が玉砕し、4千人以上が死亡したとされる。
 タラワで収容された戦死者の遺骨については、米国当局から日本や韓国にDNA鑑定のための検体が提供された。厚生労働省が都道府県を通じて遺族の調査を実施し、遺族の検体との照合を行ったところ、そのうちの一つが正敏さんの遺骨であると判明した。
 県の担当者が貞之さん方を訪れ遺骨を手渡した。貞之さんは遺骨を抱き締めると、肩をふるわせながら「お帰りなさい」「ありがとう」とつぶやいた。
 県によると、県内で戦死者の遺骨の返還は14例目。

長崎県の担当者(右)から野村正敏さんの遺骨を受け取る弟の貞之さん=長崎市田上3丁目

◎遺骨抱き締め 語り掛ける
 「ずっと供養したいと思っとった」-。太平洋戦争時、南太平洋タラワで戦死した野村正敏さん(享年23)の遺骨を受け取った弟貞之さん(92)。幼くして父を亡くし、父代わりだった正敏さんと約77年ぶりの対面を果たし、両目からあふれてくる涙を何度も拭いながら遺骨を抱き締めた。

 正敏さんは「とても家族思いな兄」だった。尋常小学校を卒業後、すぐに奉公に出て家計を支えた。
 5人きょうだいの末っ子だった貞之さんは、正敏さんに厳しくしつけられた。けんかに負けると「勉強一番、けんか一番になれ」としかられた。一方、奉公で得たわずかな小遣いでランドセルを買ってくれる優しさもあった。貞之さんは兄に「大人になればカステラば買って一緒に食べるけんね」といつも話し掛け、慕っていた。
 日中開戦後、正敏さんは佐世保鎮守府に入隊。貞之さんは母と一緒に鎮守府の門まで見送りに行った。正敏さんは門をまたぐ時「貞之だけは、学校にやってくれんね」と母に懇願した。貞之さんはいても立ってもいられずに守衛の足元をかいくぐり「兄ちゃん、死んだらだめよ。帰って来んばよ」と叫んだ。兄の背中は次第に遠ざかった。
 太平洋戦争の戦局が悪化していた1943(昭和18)年、自宅に南太平洋方面で正敏さんが戦死したことを伝える公報が届いた。白木の箱の中には兄の写真が1枚入っていただけだった。兄がいつどのように戦死したかを知るすべもない貞之さんはじだんだを踏んで泣き、「せめて遺骨のかけら、遺品の一つでもあれば」と悔しがった。
 貞之さんは戦後、郵便局員を経て長崎市で管工事業の会社「ノムラ冷熱機工」を設立。今年で49年になる。経営には困難がつき物だったが、兄が教えてくれた忍耐や辛抱のおかげで続けてこられたと感じている。今も毎朝兄の遺影に「行ってくるけんね」と話し掛けるが、そのたび「もっとしっかりせんか」としかられている気がする。「兄貴が生きていれば」と考えることもあった。
 26日、南の島に置き去りにされていた正敏さんの遺骨は、ようやくふるさとに帰ってきた。県の担当者から遺骨を受け取った貞之さんは胸にしっかりと抱き寄せると、何度も目頭を押さえながら声を震わせて語り掛けた。
 「兄ちゃん、お帰りなさい。さみしかったろう。つらかったろう」