中村義光さん(84)
爆心地から8.5キロの西彼杵郡茂木町(当時)で被爆

私の被爆ノート

向かいの山に火柱

2022年3月31日 掲載
中村義光さん(84) 爆心地から8.5キロの西彼杵郡茂木町(当時)で被爆

 西彼杵郡茂木町(当時)の役場から30メートルほどの場所に自宅があった。その日は朝から青空が広がり、役場の中庭で友人6~7人と鬼ごっこをしていた。西から飛行機が低空で飛んできて、みんな「日本の飛行機だ!」と叫んだが、それは米国の飛行機で、射撃しながら東へ飛んでいった。
 その後、飛行機が1機、上空にとどまっているのが見えた。誰かが「日本の飛行機やろうかね?」と言ったが、少し薄い雲がかかっていたため分からなかった。そして別の1機が雲から出てきて旋回した。何回か回った後、動いていない方の飛行機が何かをポトリと落とした。辺りがピカーっと光ったので、太陽光線に当たって光ったのかと思った。間もなく警戒警報のサイレンが鳴り、すぐ空襲警報に切り替わった。
 走って玄関から家に入ろうとした瞬間、ゴォーと大きな音が鳴った。生ぬるい強風が吹き、土間と居間の境にあった建具と一緒に地面にたたきつけられ、変形した建具の下敷きになった。ガラスは割れて粉々。昼食の準備をしていた母はかまどの台に引っ掛かって転んでいた。
 母が「早く防空壕(ごう)に行かんね」と言ったので、足が痛かったが何とか起き上がった。壕は歩いて15~20分ほど石坂を上った先にあり、大工の父がビワ畑に小屋を建て、その中を掘り下げていた。
 防空壕に入る前、長崎市内方面に当たる向かいの山を見ると白い煙が上がっていた。だんだん黒色に変わり、ひどく高くなっていった。間もなくその中に火柱が上がった。火は高々と広がり、こちらに迫ってきそうだった。
 翌朝自宅に戻り、後片付けや掃除の手伝いをした。屋根瓦の大部分が剥がれ落ちていたため、次の日も後片付けに追われ、父は何日かかけて家を修理した。父は8月中旬以降、浦上に住んでいた伯母を捜しに6日間出掛けた。午前6時前から弁当を腰に巻き、徒歩で通った。死人があちこち横たわり、大きなコンクリートの建物だけが残り、焼け野原だったという。結局、伯母は見つからなかった。
 8月下旬から9月初旬にかけて雨が一日中降った。ぬれながら外で遊び、家に帰ってタオルで頭を拭くとベタベタした。母がタオルを洗ってくれたが、取れなかったようで「雨の日は外で遊ぶことは許さん」と言われた。雨粒をよく見ると少し濁っていて透明ではなかった。

◎私の願い

 戦争を二度と起こさないため地球上から核兵器をなくすべきだ。日本は米国の核の傘の下で平和を唱えるのではなく、当時の状況を詳しく話し、各国と平和について意見をぶつけてほしい。大自然の青い空の下で、真の平和を実現してほしい。

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