吉田剛太郎さん(81)
被爆当時4歳 爆心地から3.1キロの長崎市麹屋町で被爆

私の被爆ノート

赤く染まった浦上

2022年3月3日 掲載
吉田剛太郎さん(81) 被爆当時4歳 爆心地から3.1キロの長崎市麹屋町で被爆

 当時、4歳10カ月だった。長崎市麹屋町で暮らし、目が不自由な父が自宅で鍼灸(しんきゅう)院を営んでいた。7人家族。長男はビルマ(現ミャンマー)に出征し、次男は茂里町の三菱製鋼所に勤めていた。三男と長女は国民学校に通っていた。
 あの日は、母と一緒に自宅近くの畑にいたが、日差しが強くなったため1人で帰宅した。ちょうど玄関の引き戸を開けた時に、ピカッと光に包まれた。家がガタガタと揺れ、背中に強烈な風を受けて家の中に吹き飛ばされた。「ドドドーン」というごう音が響いたのを覚えている。
 家中のガラスが割れて散らかり、何が起きたか分からずに泣いていると、三男が駆けつけて「なした? どこかやられたか?」と戸惑いながらも気遣ってくれた。すぐに母と長女も戻ってきた。父は外出していて、次男は土井首の方に出張していたらしい。
 しばらくして父も帰宅した。昼すぎに警防団に促され、家族で近くの寺にあった防空壕(ごう)に避難した。壕の中で休んでいると、大やけどをして包帯や布切れを巻かれた人たちが大勢運び込まれ、けがをしていなかった住民は外に出された。
 周りの人たちと一緒に高台の風頭に向かったが、幼かった私が疲れたため、坂の途中にあった墓地に家族で泊まり夜を明かした。浦上方面が絵の具で塗りつぶしたように真っ赤に染まり、時折「バン、バン」という音が鳴り響いた。ガスが爆発していたのだと思う。
 翌日、諫早市内にある母の実家に家族で身を寄せた。年内に長崎へ戻ったが、父は病に伏せ翌年の元日に亡くなった。原爆で放射線を浴びた影響があったのだろう。
 その後の生活は苦しく、私は7歳の時、南高小浜町木津(現在の雲仙市小浜町富津)に住む母の妹の家に引き取られた。それでも貧しさは変わらなかった。肩身も狭かったのでノートや鉛筆を買ってほしいと言い出せず、運動会の徒競走の賞品としてもらった文房具を使っていた。
 22歳で漁船を購入して漁業に就き、地元漁協の役員や民生委員児童委員も務めてきた。現在は県原爆被爆者島原半島連合会の副会長だが、新型コロナウイルス禍で満足に活動できず、私自身も足腰が不自由になり、もどかしい思いをしている。

◎私の願い

 戦争と原爆に人生を狂わされた。争いごとは誰かが勝って終わるということはなく、いつまでも引きずられ、苦しみが続くので絶対に始めてはいけない。日本は防衛力を保ちながら、核兵器禁止条約を批准して核軍縮を進めてほしい。

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