辻本正義さん(86)
被爆当時10歳 西浦上国民学校5年 爆心地から1キロの長崎市油木町で被爆

私の被爆ノート

運命を分けた数メートル

2022年2月3日 掲載
辻本正義さん(86) 被爆当時10歳 西浦上国民学校5年 爆心地から1キロの長崎市油木町で被爆

 あの日の光景は、物語なんかで話せるようなものではなかった。思い出そうとすると子どもの頃に戻ってしまう。本当は話したくない。
 長崎市油木町の上にある農家に生まれ、当時は西浦上国民学校5年生だった。あの日は、朝から母と一緒に田んぼ(現在の長崎北高)で草むしりをしていた。午前11時すぎ。ブーッと飛行機の飛ぶ音が聞こえた。私は母に「(米軍爆撃機の)B29の音のした」と話し掛けた。母が「こげん山の中に爆弾ば落とすもんか…」と言い掛けたその時。突然、ピッカーとものすごい光が眼前を覆った。目の前に雷が三つか四ついっぺんに落ちてしまったかのような光だった。
 その直後、ドゴーン、と聞いたことのないような音が響いた。立ち上がって空を見上げると、木の枝が飛んでいく。爆風がピシャーッと空を駆け抜けて来るのが見えた。そのまま、私も爆風に乗って数メートル先の田んぼまで飛ばされ、意識を失った。
 目を覚まして周囲を見渡すと、あっちもこっちも家が燃えていた。小江原にある母の実家も燃えているのに気付き、火を消そうと急いで向かった。だが、振り返ってみると自宅が燃えている。私と母は大急ぎで引き返した。
 自宅に隣接する牛小屋にも火が付いた。小屋の2階には収穫した麦わらを詰めていたため、火が付いた麦が上からボタボタ落ちていた。牛は苦しそうに暴れてどうしようもない状態だった。牛を逃がしたかったが、爆風で小屋がゆがみ扉を開けられない。牛はそのまま死んでしまった。
 近所では家がつぶれ、柱に挟まったまま人が焼け死んでいた。その人の家族はどうしようもないという感じで、お経を上げるしかなかった。
 自宅の前は浦上と式見を結ぶ式見街道が通っていた。ひどいけがを負った人がぞろぞろと坂を上がって行き、途中で行き倒れる人もいた。9日夕、茂里町の三菱製鋼所に勤めていた父がよぼよぼと坂を上がってきた。その時は、他のけが人に比べてあまりけがしていないように見えていたのだが…。
 私の兄と弟は自宅近くの水路で風呂用の水くみをしている最中にあの時を迎えた。兄は山陰にいて事なきを得た。が、弟はちょうど山の隙間から浦上が見える方を向いており、体の前半分に大やけどを負った。わずか数メートルの差が運命の分かれ道になった。
 =4日付に続く=

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