岩谷正敏さん(77)
被爆当時1歳 爆心地から2.7キロの小川町(当時)で被爆

私の被爆ノート

病気と闘った半生

2021年12月16日 掲載
岩谷正敏さん(77) 被爆当時1歳 爆心地から2.7キロの小川町(当時)で被爆

 1944年6月7日、長崎市小川町(現在の上町付近)で生まれ、1歳2カ月で被爆した。母に背負われ、いとこたちと自宅外にいて左半身に熱線を浴びた。その日は雲ひとつない青天だったらしい。記憶はないが両親から話を伝え聞いている。
 長崎電気軌道で勤務中だった父が帰宅し、やけどの応急処置をしてくれた。10日間ぐらい港付近の防空壕(ごう)、空き家に寝泊まりした。大波止辺りで上五島の岩瀬浦地区に戻る漁船を父が見つけ、乗せてもらうことができた。家族3人で父の故郷である上五島へ避難した。その後、長崎の家がどうなったかは分からない。
 「水がほしい」という声を耳にしたこと、生死が分からない赤ちゃんを背負った人を見たことなど聞いた記憶はあるが、父がどうやって助かったのかなど、両親は当時のことはあまり語りたがらなかった。
 避難当初は、相河郷にある祖母の実家方を頼り、その後、父の故郷である東神ノ浦郷に移った。被爆した私たち家族に、周囲の人々の目は冷たく、意地悪をされることも。原爆で死んだと思われ、財産を取られていたりもした。
 私自身は今も左半身にケロイドが薄く残っている。小学生の時には自分が被爆者であることは知っていたが不自由はなかった。ただ、中学生の時、けがの傷口がすぐに化膿(かのう)するようになり、医者から「白血球が少なくなっているので運動を控えるように」と言われた。この頃、被爆者が白血病で亡くなるのを知った。
 高校生になると、腸のぜん動運動異常で手術。38歳くらいから虫歯でも歯槽膿漏(のうろう)でもないのに歯がぼろぼろと抜け始め、40代ですべて無くなり総入れ歯に。40歳を過ぎた頃、腸閉塞(へいそく)の手術。46歳で鼻の頭の腫瘍を切除し、形成手術をした。60歳になると、右腋窩(えきか)動脈から両側大腿(だいたい)動脈をバイパス手術。67歳で胃がんになり、胃と胆のうを全摘出した。71歳の時に心臓大動脈狭窄(きょうさく)症の手術。医者から「細胞の回復が遅い」と言われた。
 幼児期の被爆がいかに成長に悪影響を及ぼすかを知った。1男2女をもうけたが、被爆2世も突然、病が出現するのではないかと苦悩した。息子らも不安がっている。
 私の体は無数の傷痕があり、誰も正視することはできないだろう。私の半生は病気との闘いだった。それが今なお続いている。

◎私の願い

 各国で戦争が起き、このままでは「子どもたちの未来はない」と言いたい。特に「核」は絶対に使ってはならない。どこで誰が被害に遭うか分からない。生涯不安を抱えて生きることになる。将来の子どもたちにそんな思いをさせないよう願う。

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