三浦利隆さん(88 )
被爆当時11歳 磨屋国民学校6年 爆心地から4.1キロの高平町で被爆

私の被爆ノート

遺体焼く姿 日常的に

2021年11月11日 掲載
三浦利隆さん(88 ) 被爆当時11歳 磨屋国民学校6年 爆心地から4.1キロの高平町で被爆

 終戦の年だったと思う。軍の命令で長崎市八坂町(当時)の家を明け渡し、一家で高平町に移住した。8月9日は朝から空襲警報が出され、近所の防空壕(ごう)に避難した。警報解除後、友だち3人と近くの墓場にいた。飛行機が飛んでいる音がして、1人が「見つけてみろ」と言ったので空を見上げた。そのときに爆発が起きた。吹き飛ばされるほどではなかったが、爆風を感じた。光を見た記憶はない。近くに爆弾が落ちたと思い、無我夢中で近くの民家に飛び込んだ。これが原爆だった。
 9日から終戦まで一家は防空壕で暮らした。母が自宅から持ってきた炊事道具で煮炊きをしていた。両親と兄弟合わせて6人家族。同居家族で犠牲になった人はいなかったが、今考えれば偶然が重なっていた。
 八坂町からの移住先は当初、浦上地区の予定だったが、同じように移転を命じられた近所の別の家族から「自分たちが浦上に住みたい」とお願いされ、父が譲った。一家は原爆で全員亡くなったと聞いた。その中には同級生の女の子もいた。
 和裁の職人だった父は体が弱く徴兵されなかった。戦時中は三菱長崎兵器製作所茂里町工場に徴用されていた。ここで多くの人が犠牲になったが、父は体調を崩して家にいた。ただ、父の弟は三菱長崎兵器製作所大橋工場で亡くなった。父と叔父の奥さんが大橋町付近を捜し回ったが、影も形もなかったらしい。
 子どもながらに大本営発表を信じ、日本の勝利を疑わなかった。年の離れたいとこは陸軍少尉で憧れの存在だった。ただ、「日本が負けた」「戦争が終わった」と聞いても悲しさや悔しさが湧き上がったかどうか記憶にない。「終わったのか」という感覚は覚えている。
 通学路の途中にあった長崎市栄町。今はビルが立ち並ぶが戦後間もないころは空き地が多く、がれきを積み上げて遺体を焼く人たちの姿を何度も見た。若い人には想像もつかないと思うが、こんな光景が日常的にあった。
 今夏、中学校の校長をしている長男から電話があり、被爆当時のことを聞かれた。たぶん登校日に話すためだったのだろう。今まで家族に自分の体験をちゃんとは語ってこなかった。今月6日、子や孫が米寿を祝ってくれた。初めて終戦前後のことを記憶の限り話すと、みんな真剣に聞いてくれた。

◎私の願い

 原爆で亡くなった叔父には生まれたばかりの男の子がいた。私の妻は幼い頃、戦争で父を亡くしている。残された子も犠牲になるのが戦争だ。岸田文雄首相は広島出身。核兵器禁止条約を批准してほしい。長崎を最後の被爆地にと願う。

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