私の被爆ノート山川勝美さん
山川 勝美(82)
山川勝美さん(82)=長崎市=
被爆当時10歳 西坂国民学校5年
入市被爆

私の被爆ノート

父求め歩き続けた

2017年09月14日 掲載
私の被爆ノート山川勝美さん
山川 勝美(82) 山川勝美さん(82)=長崎市=
被爆当時10歳 西坂国民学校5年
入市被爆

 1945年8月1日までの空襲で、父が働く長崎市茂里町の三菱長崎製鋼所第一工場も狙われた。両親は御船蔵町の自宅(現浜平1丁目)も危険と判断し、2日、母と4人のきょうだいの計6人で市内から30キロ以上離れた外海の母の実家へ疎開。父だけが自宅に残った。
 9日。きょうだいを連れて疎開先の家の近くにある海岸で水遊びをしている時に「ボーン」という爆音が聞こえた。近くの山の方を振り向くと、白いきのこ雲が立ち上っていた。煙が大きかったため、山のすぐ裏に爆弾が落ちたのだろうと思った。夕方、外海に逃げてきた人から「長崎に新型爆弾が落ちた」と聞いて、父が心配になった。
 翌日午前8時ごろ、母と2人で長崎市を目指した。父に会いたくて無我夢中だったため、途中、母と何か話したかもしれないが、記憶にない。昼すぎに住吉町まで来ると、爆風で全壊した建物が見え始めた。爆心地に近づくと、熱線で膨れ上がった死体が道のあちこちに転がっていた。がれきの山と化したまちは「しーん」と静まり、時折、地面から負傷者のうめき声だけが聞こえた。
 夕方ごろ、高台に立つ自宅に着いた。家は爆風で玄関部分を除き崩壊。父の姿はなかったため第一工場へと向かった。辺りは暗く視界が悪い中を進むと、坂道を下っている時に大きな馬の屍(しかばね)が目の前に飛び込んできた。道の脇から「水をくれ」と誰かが叫んでいた。
 夜になって第一工場に隣接する収容所に到着。「山川はいませんか」と叫ぶと、奥から「いますよ」と応答があった。それが父の声のように聞こえて安心した。だが、真っ暗な建物で父を捜すのは難しかった。負傷者たちは苦しそうに寝転がっており、父もけがして歩けない状態だろうと判断。母と2人で抱えることもできないため、結局、父の顔を確認しないまま荷車を取りに時津の親戚宅に行った。
 その日だけで何十キロも歩き続けたが、父のことで頭がいっぱいで疲れは感じなかった。翌朝、親戚宅から荷車を引いて再び長崎に向かった。収容所で再会した父は、爆心地から1・2キロの工場内で被爆したにもかかわらず、右足のすねを骨折する程度だった。全壊した工場のがれきの下敷きとなったが、そのせいで熱線を避けられたという。父を荷台に乗せ、時津の救護所に連れて帰った。

<私の願い>

 長崎原爆に関する写真を見るたびに、爆心地付近を歩いた当時の惨状を思い出す。核兵器は人の手によって作られ、人を傷つける恐ろしいもの。世界中で二度と核兵器が使われないよう、身近な若者に被爆体験を伝えていきたい。

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