森田博滿
森田博滿さん(86)
被爆当時10歳 西坂国民学校5年 爆心地から1.8キロの長崎市御船蔵町で被爆

私の被爆ノート

あと1歩遅れたら

2020年10月22日 掲載
森田博滿
森田博滿さん(86) 被爆当時10歳 西坂国民学校5年 爆心地から1.8キロの長崎市御船蔵町で被爆

 8月9日朝、私は自宅でまき割りの手伝いをしていた。一度、空襲警報が鳴って防空壕(ごう)に避難したが解除になった。その後、近くの西坂国民学校で飼っていたウサギの餌やり当番のため学校に行った。
 その帰り道、背後で飛行機のごう音がした。振り返ると、稲佐山の上に落下傘が三つ、風に漂っていた。「何やろか」。五つ年上の兄と行方を目で追っていると、学校の先輩3人が「カボチャの配給があるぞ」と知らせに来てくれた。早く父に伝えたくて兄と急いで自宅に向かった。
 私が先に玄関へ1歩入った瞬間、オレンジ色の光と爆風が体を包み、家の中に5、6メートル飛ばされた。5分ほどたって意識が戻り外に出ると、兄がうずくまっていた。上半身をやけどし真っ赤だった。
 配給を知らせた3人のうち、近くの石垣を通り過ぎた1人は全身にやけどを負い、爆風で地面にたたきつけられて亡くなっていた。石垣から半分だけ体が出ていた人は左半身にやけどを負い、石垣の陰にいた人は難を逃れた。ほんの数メートルの差で生死が分かれた。
 学校、自宅に火の手が回り、家族と一緒に山側の五社神社を目指した。途中で通った公園は人で埋め尽くされ、あちこちからうめき声が聞こえた。血で赤く染まった人、やけどで垂れ下がった皮膚が風になびくさま…。地獄絵図のようだった。町は燃え、大きなガスタンクが吹き飛ぶのが見えた。空には真っ赤な太陽。子どもながらに「この世の終わりかな」と思った。
 翌日、近所の友達の見舞いに行った。9日朝、抽選で当たった手ぬぐいをもらいに「行ってくるけん」と元気に出掛けて行ったのに、畑の隅に横たわる友は人の姿をしていなかった。目、鼻、口はふさがり、頭と脚の骨が見えていた。小さい声で「水、水、水」と訴えていたが、何もできなかった。11日朝、11歳でこの世を去った。
 近所には、無傷で帰宅したのに髪が抜け、体一面に紫色の斑点が出て、8月末に亡くなった人がいた。上半身にやけどを負った兄も苦しんだ末、7年後に人生を終えた。
 私にも紫色の斑点が出て「これでしまいかな」と思った。それでも生き延びたのは、放射能が致死量に達していなかったからだろう。配給の知らせがなければ私は家に急いでいないし、あと1歩、あと100分の1秒、玄関に入るのが遅れていたら、命はなかった。

<私の願い>

 原爆は人間を狂わせ、一生消えることのない罪や傷を残していく。核兵器を廃絶しなければならない。長崎駅前で無造作に火葬された無縁遺骨のことなどを知らない人はまだ多い。次世代に残していくために、これからも話をしていきたい。

ページ上部へ