有安エミ子さん(90)
被爆当時16歳 長崎逓信講習所生徒 爆心地から3.1キロの長崎市麹屋町で被爆

私の被爆ノート

同級生 体中やけど

2020年3月12日 掲載
有安エミ子さん(90) 被爆当時16歳 長崎逓信講習所生徒 爆心地から3.1キロの長崎市麹屋町で被爆

 現在の平戸市鏡川町で生まれ育った。1945年7月ごろ、実家を離れ、通信技術者を養成する長崎逓信講習所(長崎市麹屋町)に通っていた。
 同年8月9日。普段通りに授業を受けていた。空襲警報が解除され、4時間目の授業に入った時だった。飛行機の爆音が聞こえ、窓際の席から外に目をやった。その瞬間、目を射るような真っ黄色の閃光(せんこう)が走った。
 「熱い」と叫びながら机の下にしゃがみ込んだ。すると「ドーン」と体を揺するような大きな音とともに爆風が襲った。それはすごいものだった。
 しばらくして顔を上げると、教室内はめちゃくちゃで、窓は吹き飛び、大きな本棚が倒れていた。割れたガラスをはだしでざくざくと踏みながら、何とか防空壕(ごう)に避難した。誰も話をする人はおらず、みんな震えていた。何が起きたのか全く分からなかった。
 夕方近く、教官が近くの山に避難しようと言い、山中に逃げて一夜を明かした。眼下に見える市内は火の海。これからどうなるのかと思い、ただただ怖かった。
 10日、平戸の実家に帰ることになり、準備のために松が枝の寄宿舎に戻った。11日、友人と一緒に道ノ尾駅を目指して歩いた。浦上辺りでは黒焦げの人や、おなかを膨らませてひっくり返った馬を何頭も見た。口では言い表せない状況だった。もし私もここにいたら、一瞬でこんな姿になっていただろうと思い、恐ろしくなった。
 道ノ尾駅から汽車に乗った。平戸口駅で降りて一人で歩いていると、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、平戸の同じ町に住んでいた同級生の女の子だった。その子は体中にやけどを負っていた。
 彼女と一緒に手こぎ舟に乗り、平戸島に渡った。舟を下りた後、結構な距離を歩いて彼女の家まで行き、お母さんの下に送り届けた。後に、彼女は3日後に亡くなったと聞いた。痛かっただろうが、それでも何とかして家に帰りたかったのだと思う。あの時のことは今でも頭の中にこびりついている。
 被爆後は病気がちで何度も手術を経験した。それでもこれまで生かされ、今でも何とか歩けていて、有り難く思う。亡くなった方の分も懸命に生きなさいということだと思っている。

<私の願い>

 どんなことがあっても戦争をしてはいけない。1発で何万人もの命を一瞬で奪い去る核兵器が存在し続けることは絶対に許されない。被爆地の悲劇を二度と繰り返さないために、みんながそのことを心に刻まなければならない。

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