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小林 榮子
小林 榮子(86)
小林榮子さん(86)
救護被爆
当時15歳 長崎師範学校女子部1年
=東彼川棚町="

私の被爆ノート

大村にも強烈な光

2016年8月18日 掲載
小林 榮子
小林 榮子(86) 小林榮子さん(86)
救護被爆
当時15歳 長崎師範学校女子部1年
=東彼川棚町="

大村市にあった長崎師範学校女子部1年の同級生は40人程度。東彼地区の出身者は私一人だったのではないか。寮は7~8人部屋。下級生が洗濯など先輩の身の回りの世話をしなければならず、寮生活はつらかった記憶がある。

当時は空襲続き。勉強どころではなかった。8月9日の原爆投下時は、2階の教室にいた。生物の授業で何かの実験をしていた時ではなかったか。強烈な光が窓から差し込み、窓ガラスが割れた。何が起きたのか分からなかった。

「防空壕(ごう)へ逃げろ、急いで、急いで」。先生の叫び声を聞き、必死で走った。周りを見渡す余裕はない。大村に爆弾が落とされたと思い、恐ろしかった。

どのくらい時間がたったのだろうか。長崎方面を眺めると煙がもくもくと上がっている。夕方になり、長崎市にあった長崎師範学校男子部の生徒が次々に担架で、女子寮の大部屋に運ばれてきた。大半ははだしのまま。ひどいやけどで皮膚がただれていたり、ランニングシャツの痕がくっきりと残っていたり。1年生はその日から終戦まで、3交代制で看病に当たった。

やけど部分からはうじ虫が湧いていた。木箸でつまみ、紙に包んで捨てる。その繰り返し。練り込んだ白い薬のようなものを、やけど部分に塗ってあげたこともあった。塗った部分にはすぐにハエが湧いた。

看病をした男子生徒とは、ほとんど会話をしていない。たまに出身地を聞いたくらい。痛さに絶えていたのか、ただ、沈黙が流れていた。

重傷者をリヤカーに乗せ、学校近くの西川病院に運ぶ仕事を1回だけ手伝った。病院では、多くの人が横たわり、苦しんでいる。無残な光景だった。その状況に頭がまひして、うめき声は聞こえていなかったように思う。

20歳で中学の音楽教諭になり、故郷の波佐見町などで27年間の教員生活を送った。好きな歌が歌えるという平和をかみしめる一方で、生徒に戦時中の体験を語ることは、ほとんどなかった。

息子にもちゃんと戦争体験を話したことはない。戦後71年。生かされて、年を重ねた。新聞やテレビで、多くの被爆者が勇気を持って語っている。自分は何も残さないでいいのか。いや、後世に伝えられることはあるはずだ。その思いが日に日に強くなっている。

<私の願い>

世界ではテロが相次ぎ、いつ戦争になるか気が気でない。核兵器を使えば世界はすぐに滅びる。国にしても、個人にしても、「自分がよければいい」と考える人が多くなっているのではないか。他人をいたわる気持ちを大切にしてほしい。

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