浦部 義勝
浦部 義勝(88)
浦部義勝さん(88)
爆心地から1・1キロの長崎市大橋町で被爆
=長崎市界1丁目=

私の被爆ノート

息できぬほどの圧力

2016年1月28日 掲載
浦部 義勝
浦部 義勝(88) 浦部義勝さん(88)
爆心地から1・1キロの長崎市大橋町で被爆
=長崎市界1丁目=

原爆がさく裂した時の光や音も、町じゅうにあふれていたという死体も、記憶にはない。だからこれまで、被爆体験を語ることはなかった。

家庭が貧しく、山里尋常高等小を卒業後は、働くために三菱重工長崎造船所の工員養成校に1941年入学。設計のクラスに振り分けられた。

同校で毎週4日ほど基礎教育を受けた。上級生は最初から作業現場に送られ勉強する機会がほとんどなかったため、私たちはうらやまれ、いじめられた。「勉強するだけなのに何でたたかれないといけないのか」と理不尽に思った。

2年間通い、航空魚雷を造る三菱兵器製作所大橋工場の設計事務所に入社。職員の技師や技手の使いっ走りとして、安定器や爆発線などを担当した。魚雷をグラム単位で軽くしようと何度も設計図を書き直し、徹夜することもあった。

1945年8月9日。当時18歳で、朝から晩までこき使われる毎日に嫌気が差していた。昼まで寝ておこうと、設計事務所とは別棟にある教室の机に突っ伏していた。

光も音も知らないが、息ができないほどのすさまじい圧力を感じ、ただ口を大きく開けて何か叫んだ。教室は倒壊。何とか抜け出すと周囲は炎上していた。「消防は何で来ない」と思いながら、国鉄の線路を歩いて岩川町の自宅を目指したが、大橋町辺りから先が燃えていた。道ノ尾駅で一晩過ごそうと思って向かう途中、救援列車が通り掛かったので乗り込んだ。急に右膝が痛み、動けなくなった。いつの間にか強く打っていたらしい。諫早駅で降ろされ、救護所では1週間放置された。

時津にいた父が迎えに来たので長崎に帰ると、弟2人は行方不明。妹1人は死んでいた。母ともう1人の妹も数日後に逝った。父と一緒に、母、妹2人の遺体を焼いたが、のど仏しか拾えず、手元に残った遺骨はわずかだった。

<私の願い>

世界から原爆がなくなることが一番いい。人間はナイフでも持てば何かを削りたくなるもので、それだけで危険だ。被爆者が核廃絶を訴える声を上げても、やはり聞く人と聞かない人はいる。私も90歳近くなり、あとは若い人の好きにしてもらうしかない。ただ平和であることを願っている。

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