深堀 リン
深堀 リン(88)
深堀リンさん(88)
爆心地から2・2キロの長崎市稲佐町1丁目で被爆
=長崎市高尾町=

私の被爆ノート

黒焦げ 性別も分からず

2015年10月8日 掲載
深堀 リン
深堀 リン(88) 深堀リンさん(88)
爆心地から2・2キロの長崎市稲佐町1丁目で被爆
=長崎市高尾町=

「70年は草木も生えない」と言われた浦上地区に暮らして70年近く。草木に影響があるならきっと人間にも。そんな不安が襲った時期もあった。原爆投下の翌年、同じ職場だった夫と結婚し、今では子や孫など家族が50人以上いる。生き抜くことで、原爆に立ち向かってきた。

18歳の夏。稲佐町の工場で事務員として働いていた。夫は工場長で、同僚らも交えて遊ぶうちに自然と恋愛感情が芽生えていった。間もなく夫に召集令状が届き、仏教徒だった私にカトリックの教義書を渡して赴いた。

普段通り、事務作業をしていたあの日。真っ赤な光が走った次の瞬間、屋根が音をたてて崩れ、柱の下敷きになった。何とか助け出され、午後3時すぎまで近くの防空壕(ごう)に避難した。その後、時津村の自宅を目指した。

浦上川には、水を求めて重なり合う人、炭のように真っ黒に焼けた人、人、人…。地獄のようだった。いったい何が-。理解できず、うつむきながら歩を進めることしかできなかった。

翌日は時津村の救護所の手伝いへ。トラックで多くの負傷者が運ばれてきたが薬も包帯もない。「水を欲しがれば、飲ませてやれ」とだけ指示された。だが、内心は「水が欲しいと私に声を掛けないで」と思っていた。ろうそくの光だけが頼りの薄暗さの中、目の前にいたのは性別も、目や口がどこにあるのかさえ分からないほどに黒く焼けた人たち。一様にひざまずき、祈るように手を合わせている姿が恐怖だったのだ。

そして終戦。9月に復員した夫と翌年12月に浦上第一病院(現・聖フランシスコ病院)で10組合同の結婚式を挙げた。原爆の傷痕が残る建物に、赤いじゅうたんを敷いて。ほとんどの花嫁はもんぺ姿だったが、父が着物を用意してくれた。多くの祝福を受け、幸せをかみしめた。

<私の願い>

戦時中、食糧難に加え、学校では竹やり訓練などでほとんど勉強ができなかった。無残な姿で亡くなる人の姿も見てきた。若い人たちに、あんなつらい思いをさせないためにも戦争をなくさないといけない。爆死した人たちは平和を願っているはず。70年守った平和が長く続いてほしい。

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