溝上 貴信・下
溝上 貴信・下(87)
溝上貴信さん(87)
爆心地から1・2キロの長崎市茂里町で被爆
=西彼長与町吉無田郷=

私の被爆ノート

斑点、流血…死の淵に

2015年2月27日 掲載
溝上 貴信・下
溝上 貴信・下(87) 溝上貴信さん(87)
爆心地から1・2キロの長崎市茂里町で被爆
=西彼長与町吉無田郷=

林田治君と長与の自宅に帰る途中、「道ノ尾駅に汽車が来るのでけが人は乗って大村の病院に行くように」との連絡があり、2人で駅に向かった。車内は8割くらい埋まっていて、うめき声や焼けたにおいが漂っていた。入り口付近に乗ると林田君の焼けたにおいも鼻を突いた。

本川内辺りで停車した時、林田君が「苦しいから降りたい」と言い出した。大村まで行こうと言ったが、「じいさん、ばあさんが長与にいるから降りる」と言って聞かない。降りると青年団の人が10人ほどいて、林田君を見るなり「戸板を持ってこい」と叫んだ。だが林田君は「乗りえん。からってくれろ」と言った。血や汁でべたべたの林田君を背負うのはためらわれたが、仕方なかった。僕の背中で死んでしまわないか心配で、何度も声を掛けた。

青年団が連絡してくれたのか、途中で林田君の祖父母がリヤカーを引いて迎えに来たように記憶している。2、3週間後、林田君は耳や鼻から血を出し亡くなったらしい。

自宅に戻ったが、三菱長崎兵器製作所大橋工場の女子寮長をしていた父は翌日になっても帰ってこなかった。僕は11日から住吉や大橋付近を捜し回った。牛や馬の死骸のほか、体が膨張しシャツが張り裂けた人の死体などが転がっていた。父ではないかと何度も見直したが見つからず、数日後、原爆投下の日に父は大橋工場にいたとの連絡があり骨を取りにいった。

被爆から1週間ほどして僕は寝込んでしまった。体調は日々悪くなり、体中に斑点ができ、髪も抜け落ちた。鼻と口から血が出るようになり、鼻に詰めた脱脂綿や血は洗面器1杯以上に。往診に来た医者は母に「明日は来ても無駄だ。もし明日生きていたら知らせてくれ」と言っていた。

翌日も僕は生きていた。母は不眠不休で看病してくれた。コイの生き血を飲んだり祈〓(きとう)師を呼んだりとあらゆる手を尽くした。だが今度はだんだんと胃が痛くなり、月の半分ほど寝込むようになった。

このままでは勤めには出られないと、祖父から職人になることを勧められ、その後、洋服の仕立屋になった。
【編注】〓は示ヘンに寿の旧字体

<私の願い>

原爆の惨状を嫌というほど見てきた。多くの人が直接死に、多くの人がその後苦しんで死んでいった。知人もたくさん死んだ。もしまた戦争があったら、ほとんどの人が助からないと思った方がいい。世界から核兵器はなくならないと思うが、せめて日本は戦争がない国になってもらいたい。

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