嘉松 愛子
嘉松 愛子(86)
嘉松愛子さん(86)
爆心地から2・4キロの長崎市立山町で被爆
=長崎市立山2丁目=

私の被爆ノート

炎の夜空 ただ眺めた

2015年2月19日 掲載
嘉松 愛子
嘉松 愛子(86) 嘉松愛子さん(86)
爆心地から2・4キロの長崎市立山町で被爆
=長崎市立山2丁目=

あの日の朝。16歳だった私は、挺身(ていしん)隊として動員されていた平戸小屋町の三菱電機長崎製作所に向け、いつものように立山町の自宅を出た。

数分もしないうちに警戒警報が鳴った。「きょうは休もう」。それまで一度も休んだことはなかったが、なぜか急に思い立ち、引き返した。

自宅でネコと遊んでいると、敵機の爆音が聞こえた。一目見ようと、玄関の外に1歩出た午前11時2分。白い稲光のような強烈な光に襲われた。

真っ昼間の閃光(せんこう)に驚いたが、新聞で見た広島と同じ爆弾が落とされたのだろうと直感した。辺りに目立った形跡はなかったが、家の中は茶棚が倒れ、炊事道具が散乱していた。

「また爆弾が落とされるかもしれない」。近くの畑にござを敷き、両親と数日間過ごした。金比羅山からは、やけどをした人がぞろぞろと列をなしてどこかに下り、県庁の方は真っ赤な炎が夜の空を染めた。その見慣れない風景を、特に何かを感じることもなく、ただ眺めた。

母は被爆後、貧血気味になり、私も手や足に赤い斑点が現れ、数年間消えなかった。また、外傷もなく元気にしていた顔見知りが突然亡くなったという話をよく聞いた。詳しい原因は分からないが、被爆の影響だったのだろう。

終戦から1年ほど過ぎたある日。役所から広報が届いた。兵隊に行っていた八つ上の兄が「ニューギニアで栄養不良のため亡くなった」と知らせるものだった。

「いつ帰ってくるか」と待ち続けた母に読んで聞かせた。母が大きく表情を崩すことはなかった。心のどこかで覚悟していたのだろう。

しかし、人の親になった今の自分なら、その時の母の気持ちが痛いほどよく分かる。戦争でわが子を失うことが、どんなにつらかったことか。

<私の願い>

戦争は絶対にしてはいけないし、加担してもいけない。私たちが体験した悲しみや苦しみを、子や孫の世代には絶対に味わわせたくない。核兵器の使用や所持についても反対だ。一瞬にして多くの命を奪うだけでなく、その後の健康にも多大な不安と影響を及ぼし、苦しんでいる人が大勢いる。

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