吉崎 幸恵
吉崎 幸恵(74)
吉崎幸恵さん(74)
爆心地から3・5キロの長崎市伊良林町(当時)で被爆
=福岡市博多区=

私の被爆ノート

痛さと怖さ 泣き続け

2014年12月11日 掲載
吉崎 幸恵
吉崎 幸恵(74) 吉崎幸恵さん(74)
爆心地から3・5キロの長崎市伊良林町(当時)で被爆
=福岡市博多区=

空は真っ青で暑い日だった。自宅の窓は開け放たれ、5歳の私は1歳下の妹と家の中で追いかけっこをして遊んでいた。

突然、空が真っ白に光った。何が起きたのか分からず動きを止めた直後、爆風で家が揺れ、家具や建具が倒れ、窓ガラスは割れて家中に散らばった。家の裏の防空壕(ごう)に逃げ込む途中、ガラス片を踏んで足の裏を切った。痛いのと流れる血が怖いのとでわあわあ泣いたことをはっきりと覚えている。

後で聞くと、長姉は座敷にいた1歳の妹に覆いかぶさって頭や足にガラスが刺さって血を流し、しばらく放心状態。昼食を準備していた次姉は爆風で土間にたたきつけられ気を失っていたという。家の畳にはガラスが刺さっていたので、その夜は縁側下の地面に布団を敷いて寝た。

三菱長崎兵器製作所大橋工場に学徒動員でいた父のおいが帰らず、10日から両親や親族が捜しに出掛けた。彼は臨時救護所となった伊良林国民学校で無傷で見つかったが、喜んだのもつかの間、出血、嘔吐(おうと)、下痢、脱毛が始まって急速に衰弱し、8月18日に亡くなった。

家族は比較的健康。しかし、1946年12月生まれの妹は甲状腺機能低下症で、1番体調が悪かった。両親が原爆投下翌日から爆心地付近を数日間歩いたことが影響したのではないかと思う。

福岡に来た20歳のころ、母が被爆者健康手帳を送ってくれて、健康そのものだった自分が被爆者なのかと驚いた。手帳をもらった以上は関心を持とうと母から被爆当時の話を聞き、平和運動に参加するようになった。爆心地の惨状を知らずに証言するのはためらいもあったが、被爆者の故山口仙二さんに励まされ、83年に初めて福岡市の小学校で体験を話した。85年には原水爆禁止日本協議会(原水協)の遊説団の一員として米国でも証言した。

<私の願い>

今日の聞き手は明日の語り手という言葉がある。被爆体験を聞いた人たちには、被爆した国の国民として被爆の実相を語り継いでいってほしいと強く願う。私も、亡くなったり体が自由に動かない被爆者に成り代わって活動しているつもり。いつかいなくなる被爆者の言葉を伝え続けてほしい。

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