熊 和子・上
熊 和子・上(87)
熊和子さん(87)
入市被爆
=長崎市香焼町=

私の被爆ノート

屋根越し 巨大な煙の柱

2014年9月25日 掲載
熊 和子・上
熊 和子・上(87) 熊和子さん(87)
入市被爆
=長崎市香焼町=

実母とは6歳で死別。長崎市竹の久保2丁目(爆心地から1キロ)の自宅で父と継母、妹弟の7人で暮らしていた。私(旧姓坂口)は長女で当時18歳。あの日、徴用工として香焼島の川南工業造船所(同10・1キロ)に出勤しており、家族で唯一、近距離被爆を免れた。

午前6時すぎ。家族と食卓を囲み、6時半ごろ出勤。近所の空き地にはラジオ体操する町内の人々。セミも鳴き始め、いつも通りの朝が始まろうとしていた。しかし、この日に限って肌身離さなかった家族写真を自宅に置き忘れていた。

旭町の桟橋から通勤船に乗り、香焼島に着いたのは8時ごろ。警戒警報は鳴っていたが、そのまま室内で出勤簿の整理を続けていた。

同じ建物の隣部屋には米兵の捕虜もいた。おそらく戦前は技師だったのだろう。船の設計を任されていたようだった。前年の冬、たばこの火を付けてほしそうにしていたので、ストーブの火を貸してあげると大層喜んでくれた。しかし上司からこっぴどく怒られ、それ以来、目を合わせるのも避けるようにしていた。

事務作業もさばけてきた11時すぎ。上司が慌てた様子で「長崎に大型爆弾が落ちた。すぐ帰るように」と告げた。光や音には気付かなかったが、屋外に出ると、巨大な煙の柱が工場の屋根越しに立ち上っているのが見えた。この時は「(もっと手前の)福田辺りに落ちたのだろう」と思っていた。

自宅に向かうため、香焼島から臨時船で旭町の桟橋に着くと、町の姿はすっかり変わっていた。焼け落ちた瓦が散乱する道を歩けば、やけどした人たちから足首をつかまれ「水を」と求められた。「家が気になるから」とわび、走り抜けた。

その後、どうやって自宅にたどり着いたのか、よく覚えていない。到着すると、辺りはもう薄暗くなっていた。家は跡形もなかった。何もかも、なくなってしまった。

ただ、この日までは家族全員が生きていた。

家族6人は自宅近くの防空壕(ごう)に身を寄せていた。入り口に父(昼雄、当時45歳)が座っているのを見つけ駆け寄ると、父は「こんなになってしもうたばい」とつぶやいた。

家は爆風で倒壊。父は下敷きになりながらも、はい出てきたという。その後、家は飛び火で全焼したと聞いた。

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