木村 力男
木村 力男(75)
木村力男さん(75)
爆心地から4・5キロの長崎市西泊町で被爆
=佐世保市江上町=

私の被爆ノート

耳つんざく さく裂音

2012年5月17日 掲載
木村 力男
木村 力男(75) 木村力男さん(75)
爆心地から4・5キロの長崎市西泊町で被爆
=佐世保市江上町=

父が1943年にニューギニアで戦死し、母も翌年病死したため、長崎市西泊町に住む祖母に引き取られ、伯母一家と共に暮らしていた。

当時は同市の立神国民学校(旧市立立神小)の3年生。夏休み中は毎日早朝から遊び回っていた。あの日もいとこと3人で、野草を使った草履作りに夢中だった。

突然、上空から「ブーン」と飛行機のエンジン音が聞こえてきた。「空襲にしては位置が高すぎるね」「味方かな」。雲一つなく晴れわたった青空を見上げて不思議がっていると、間もなく一つの落下物が目に入った。

直後、目がくらむほどの閃光(せんこう)が一面に広がった。瞬間的に近くの家の床下に身を潜らせたが、直後のさく裂音は耳をつんざく大きさ。暗がりの中で身を縮め、恐怖におびえた。どれくらいの時間が経過しただろうか。恐る恐る外をのぞくと、もうもうとしたきのこ雲が眼前に広がっていた。

自宅は山に隔てられた地域で、爆風や熱線による被害はほぼなかった。夏休みが終わって学校が再開すると、友人は全員無事であることが分かり胸をなで下ろした。

原爆投下からしばらくの期間が経過して街へ出ると、長崎駅前の巨大な鉄塔は「く」の字に折れ曲がり、城山町にあった祖母の妹の家屋も無残な姿に変わり果てていた。

でも、いつ命を落としてもおかしくない状況は被爆前も同じだった。西泊地区周辺に潜航艇などを建造する三菱の造船所があったためか被爆前、度重なる空襲に見舞われた。ある日、米軍機の機銃掃射が体のすぐ脇を通り抜けたかと思うと、目の前にいた消防団員が撃ち殺された。

あの日、上空を飛び去るB29と、落下する爆弾らしきものの姿は今も脳裏に焼きついている。毎年8月9日を迎えるたび、生き延びられた幸運な思いと同時に、腹立たしさがわき起こる。

<私の願い>

われわれが経験した惨状を、子どもや孫には絶対、味わわせたくない。このまま平和であり続けてほしいと願うのみだ。戦争に使う核兵器とエネルギーを生む原発は全く異なるが、命をおびやかす点で問題の根幹は同じ。原発再稼働には賛成できない。

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